平安時代の中期以降,僧籍にあって,主として仏教絵画の制作や仏像の彩色などに従事した専門画家。8世紀の官営工房が解体した直後の平安前期に,仏教美術の制作に携わった画工の実態はなおつまびらかでない。しかし,当時の主要寺院にのこる資財記録から,仏教絵画の旺盛な需要を背景に,それら寺院が専従の画工を必要としたことは容易に推測できる。平安中期には,これらの画工は仏師と記される。945年(天慶8)に浄土図を描いた定豊,1000年(長保2)に五大尊画像を制作した平慶などは共に仏師と呼ばれ,明らかに当時の世俗の画工や絵師とは区別された。この仏教絵画を制作する仏師は,やがて平安後期から一般に絵仏師と呼ばれるようになる。例えば,1105年(長治2)尊勝寺の造営に参画した画家の定助は,《中右記》に〈絵仏師定助〉と記載されている。しかも,このころから,仏像(彫刻)を制作する仏師は木仏師と呼ばれ,仏師でも絵像と彫像の制作者の区別がなされる。仏師の社会的地位をみると,木仏師の巧匠康尚は998年(長徳4)に講師という僧職につき,1022年(治安2)には定朝が仏師としてはじめて法橋という僧綱位を授かった。これに対して,絵仏師では救円が40年(長久1)に講師に,68年(治暦4)には教禅も絵仏師としてはじめて法橋に任ぜられた。また,11世紀末の絵仏師明照は,仏像彩色の功により地方寺院の別当となる。こうしてしだいに,絵仏師も木仏師と同等に制作者として功績が評価され,僧として公認された。ただし,当時新しい制作方式を私有化した木仏師がなお社会的・経済的に優位であった。平安後期になるとすぐれた絵仏師が輩出し,1154年(久寿1)法印位に昇進した絵仏師智順に代表されるように,彼らの地位は向上した。また,このころから有力寺院に絵仏師の座が設けられ,絵仏師の世襲化や画派の形成がみられる。さらに絵仏師の世俗画領域への進出や職業化によって,僧職意識に変化があらわれてくる。他方,明恵上人の同朋恵日房成忍(じようにん)のような本来僧であって画技にすぐれた画僧があらわれ,鎌倉後期以降の禅林画僧をうむ基盤が確立する。
執筆者:吉田 友之
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僧籍に属して、おもに仏画の制作にあたった画家。画技に長じていても作画を専業としない画僧とは区別される。平安時代に入り密教や浄土教の信仰が高まるにつれて仏画の需要が増大し、その制作を専門とする画師が現れた。鎌倉時代には興福寺などの大社寺は画所を置き絵仏師を抱えた。また宅間勝賀(たくましょうが)は東寺の専属の絵仏師に任じられたことが知られている。室町時代になり仏画の需要が減ると、物語絵や御伽草子(おとぎぞうし)の挿絵などの世俗画も量産した。なお、仏像彫刻を専門としたものは仏師(木仏師)とよばれる。
[加藤悦子]
…しかし,9世紀末から宮廷内に絵所(えどころ)が設けられると,画技の優劣によって選抜された巧匠がその職に任ぜられた。この個人的技量によって選ばれた工匠は,やがて,11世紀に公認された僧籍の絵仏師と身分や役割が区別されて,一般に〈絵師〉とよばれた。12世紀以降,絵所出仕の絵師は従来の八位から五位へと昇進し,絵所の預(あずかり)に就任して中級官人の待遇をうけた。…
…平安時代に入って官の造寺造仏が減少すると,各有力寺院が造仏所を持ち,工人を抱えることになった。またこのころには絵師のうちで絵にかいた仏像,現在でいう仏画を描く工匠が絵仏師といわれたのに対し,このころの彫刻が木で造られることが多かったので木仏師とも呼ばれている。また荘厳具(しようごんぐ)の製作に当たる工人は餝(かざり)仏師と呼ばれた。…
※「絵仏師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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