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巨勢派 こせは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

巨勢派
こせは

平安時代初期の巨勢金岡を始祖とする画家の家系で,宮廷の絵所 (えどころ) に重要な地位を占めた。9世紀後半に活躍した金岡のあと,10世紀前半の相覧 (おうみ) や同中頃に村上天皇の宮廷絵師として知られる公望,公忠兄弟は金岡の子や孫と思われ,『源氏物語』中でも画名をうたわれている。さらに 11世紀前半に宮廷や貴族に重用された広貴 (ひろたか) によって様式的完成が行われ,仏画肖像画にまで広範な活動が記録される。 12世紀の宮廷絵師信茂や宗茂巨勢派と思われ,さらに鎌倉時代以降奈良に移った一派は興福寺絵所に中心的地位を占めた。

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百科事典マイペディアの解説

巨勢派【こせは】

日本絵画史上最古の,最も永続した画系。巨勢金岡(かなおか)を始祖とする。《大乗院寺社雑事記》所載の巨勢系図によれば室町時代まで20余代続いたといわれる。ただしこのとおり代々血脈が続いた画系であったかどうかは諸説に分かれる。
→関連項目飛鳥部常則弘法大師行状絵巻地蔵菩薩霊験記絵

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世界大百科事典 第2版の解説

こせは【巨勢派】

平安初期に活躍した巨勢金岡(かなおか)を始祖とする画家の家系。興福寺大乗院の《尋尊大僧正記》文明4年(1472)の条には金岡以下の系図が載せられているが,初期の画家に関しては,断片的な記録や逸話が伝えられているにすぎない。中国的主題による唐風の絵画を日本化するさきがけとなった金岡は,また文人貴族と交わり,画家として名声を高めた。その後継者の巨勢相覧(おうみ)は9世紀から10世紀にかけて活躍し,901年(延喜1)絵所の絵師に任ぜられた(《除目大成抄》)。

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大辞林 第三版の解説

こせは【巨勢派】

大和絵の一流派。巨勢金岡を祖とし室町末期まで続いた。平安時代には宮廷絵師として大和絵の基礎を築いたといわれ、鎌倉時代以後は興福寺絵所の絵師として活躍した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

巨勢派
こせは

平安時代前期から室町時代後期まで続いた画家の家系。巨勢金岡(かなおか)(9世紀後半)を始祖とし、日本において最古かつもっとも長く存続した画系。『大乗院寺社雑事記』の文明(ぶんめい)4年(1472)12月23日の条に載る「巨勢氏系図」にその家系の大要が記されている。平安時代には宮廷絵所(えどころ)の絵師として、世俗画、とくに大和絵(やまとえ)の発展に重要な役割を果たした。日本絵画の和様化は、金岡によって初めて進められた。その継承者である相覧(おうみ)(相見とも書く。系図には欠)は10世紀初めに、紀貫之(きのつらゆき)の同時代人として活動した。さらに次世代にあたる公忠(きみただ)と公望(きみもち)(公茂とも書く)兄弟の活動は、10世紀なかばに新しい画風がおこったことを推測させる。11世紀初め、藤原文化の全盛期に多彩な活動がみられるのが、公望の孫にあたると考えられる広貴(ひろたか)(弘高とも書く)である。白河(しらかわ)・鳥羽(とば)両院の院政期には、広貴の孫と思われる信茂(のぶしげ)、さらにその子の宗茂(むねしげ)が活躍している。このように巨勢派は平安時代を通じて中央画壇で活躍したが、鎌倉時代に入ると京都を離れて南都(奈良)に赴き、以後絵仏師として存続した。12世紀最末、東大寺において仏師快慶らとともに活動した有尊(ゆうそん)は、興福寺の一乗院および大乗院の両絵所職を兼ねた。次代の堯尊(ぎょうそん)は一乗院家吐田座(はんだざ)を、堯有(ぎょうゆう)は大乗院家吐田座を受け継ぎ、南都の有力な絵所座となった。しかし15世紀後半には絵所座としての諸権利を失うことなどがあり、16世紀に入ると解体した。[加藤悦子]

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