日本歴史地名大系 「布美庄」の解説 布美庄ふみのしよう 鳥取県:米子市長砂村布美庄日野川と法勝寺(ほつしようじ)川の西岸、現車尾(くずも)・観音寺(かんのんじ)・長砂(ながすな)町から南の宗像(むなかた)・兼久(かねひさ)・福市(ふくいち)にかけての地域に比定される。立庄の時期などは不明。嘉禄三年(一二二七)四月九日の将軍家藤原頼長袖判下文(色部文書)に「伯耆国布美庄」とみえ、同年四月七日の為長法師の譲状に任せ、為長から子の平(色部)公長への当庄などの地頭職譲与が安堵されている。暦応三年(一三四〇)山城嘉祥(かしよう)寺(現京都市伏見区)の行司らは、当庄のうち長須那(ながすな)(長砂)村および仁王丸(におうまる)名への安富右近大夫の乱妨を訴え、八月一八日右近大夫に対し弁明を命じる室町幕府引付頭人奉書(加賀前田家所蔵文書)が出された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報