長砂村(読み)ながすなむら

日本歴史地名大系 「長砂村」の解説

長砂村
ながすなむら

[現在地名]米子市長砂町・道笑町どうしようまち四丁目

陽田ようでん村の東にある。加茂かも川が北西へ流れ、東・西に小丘陵を負う。平成元年(一九八九)から二年に行われた当地域の発掘調査によって、原始・古代以降法勝寺ほつしようじ川などの氾濫により堆積したとみられる厚い砂層が南北にわたって検出され、村名はこのような地質・地形に由来するとも考えられる。「伯耆志」は「伯耆国風土記」逸文に記す「相見郡 々家」は当地方にあたるとし、また北方車尾くずも村民は当村の出自と伝える。暦応三年(一三四〇)八月一八日の室町幕府引付頭人奉書(加賀前田家所蔵文書)に、山城嘉祥かしよう(現京都市伏見区)領の伯耆国布美ふみ庄内として「長須那村」がみえる。

長砂村
ながすなむら

[現在地名]出石町長砂

水上むながい村の北に位置する。出石川はかつて同村との間を流れており、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では当村集落は同川の左岸に位置していたが、川替えによって出石川の川筋が変わり、文化年間(一八〇四―一八)の但馬国領知絵図(出石神社蔵)では当村集落は同川の右岸となっている。出石藩の郷村支配において初め下郷組に属したが、元禄九年(一六九六)口矢根くちやね(現但東町)などが矢根銀山付村として幕府領に転じた際(引渡しは同一〇年)弘原上ひろはらかみ村・弘原中村などとともに山之中組に所属が替わり、併せて弘原町分庄屋の支配となった。

長砂村
ながすなむら

[現在地名]加古川市野口町長砂のぐちちようながすな

天王寺てんのうじ村・細田ほそだ村の南に位置する。永正一二年(一五一五)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には承仕散田のうち計四反一〇歩に長砂の作人三郎兵衛が、天満宮猿楽雑事帳のうちに円長えんちよう(現曹洞宗)二反三〇が記載されている。天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(同文書)には私領畠分二〇代に長砂の浄光院・三郎兵衛・宝生坊の名がみられる。

長砂村
ながすなむら

[現在地名]若桜町長砂

不香田ふこうだ村の東、舂米つくよね川沿いにある。拝領高は一一二石余、本免四ツ八分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一二九石余、竈数一〇余。「因幡志」では家数一四、産土神は牛頭天王・田原たわら大明神。物産は蓑・莨。不動山長福ちようふく(三宝院派修験)がある。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一三四石余、竈数一六(うち山伏一)。長福寺は宝暦七年(一七五七)頃に本山山城醍醐寺から山号・寺号の免許を得、同一三年直末となっている(在方諸事控)。長福寺大日堂に安置される本尊大日如来(木造坐像の金剛界・胎蔵界の二体)はかつては邑美おうみ円護えんご(現鳥取市)の本尊であったと伝え、同寺が中世に退転、大日堂に移されたという(因幡志)

長砂村
ながすなむら

[現在地名]勝田市長砂

東は太平洋、西は足崎たらざき村。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「長砂村」とみえ、また「横道村」がみえ、元禄郷帳の長砂村の項には「古ハ長砂横道二ケ村」と注記される。「水府志料」に「旧横道、長砂の二村、元禄十二辰年、一村に合せらる」とある。この横道は明治一九年(一八八六)の「茨城県常陸国那珂郡前浜村誌」によると、もと海岸近くにあった村落が元和三年(一六一七)の大風で埋没したため移住したものという。小字名に宿屋敷しゆくやしき・東屋敷・西屋敷・南屋敷・北屋敷があり、昭和四三年(一九六八)東屋敷から発見された古瀬戸や約二千枚の古銭は室町時代初期のものとみられる(勝田市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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