平業房(読み)たいらのなりふさ

朝日日本歴史人物事典 「平業房」の解説

平業房

没年治承3.12(1179)
生年:生年不詳
平安末期の後白河院の北面の武士。斎院次官平盛房の子。後白河法皇の寵妃高階栄子(丹後局)の前夫。ふたりの間には業兼,教成ら数子がある。治承1(1177)年に鹿ケ谷の変で平清盛に捕らえられたが,法皇の再三の請いによってひとりだけ放免され,同3年に正五位下左衛門佐となる。その出世は妻の存在によるところが大きいが,自身も今様を学び,下北面から身を起こして院に近習し,「御寵人」とまでいわれた。同年11月の清盛クーデタで解官され,伊豆へ配流されるが途中で逃れ,再び捕らえられて殺された。<参考文献>米谷豊之祐「後白河院北面下臈」(『大阪城南女子短大研究紀要』11号)

(土谷恵)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平業房」の解説

平業房 たいらの-なりふさ

?-1179 平安時代後期の官吏
後白河法皇につかえて信頼されたが,治承(じしょう)3年平清盛のクーデターの際免官となり,伊豆(いず)に流される途中逃亡。同年12月京都で捕らえられ殺害された。後白河法皇の妃高階栄子(たかしなの-えいし)の前夫。

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