平氏政権(読み)へいしせいけん

改訂新版 世界大百科事典 「平氏政権」の意味・わかりやすい解説

平氏政権 (へいしせいけん)

平安時代末期,平清盛によって樹立された政権。六波羅政権とも言う。

白河・鳥羽院政期に,院政武力的支柱として台頭してきた平氏は,保元・平治の乱を経て,中央政治の動向を左右する政治勢力としての位置を確立する。平治の乱後,二条天皇親政派と後白河上皇(後白河天皇)の対立が激化し,後白河は清盛を味方につけ天皇派に対抗しようとした。清盛は両派と関係を結んで巧みに政界を遊泳,1160年(永暦1)の参議正三位を手はじめに,急速な官位の昇進を果たし,67年(仁安2)には太政大臣に進んだ。同年,平氏は全国的な軍事警察権を獲得。これ以降,国家権力は,後白河院勢力とそれに従属的に同盟する平氏のブロックが掌握することになった。清盛は翌68年病を得て出家,家督を重盛に譲るが,以後も摂津福原の別荘にあって政局を左右しつづけた。この年清盛室の妹滋子(しげこ)を母とする高倉天皇が即位。71年(承安1)には清盛の娘徳子(建礼門院)を天皇の後宮に入れた。平氏は摂関家にも近づき,清盛娘盛子を近衛基実に嫁せしめ,基実が早世すると,摂関家領を手中に収めた。さらに天台座主明雲と結んで延暦寺との関係を密にした。しかし宮廷内外にわたる強引で急激な勢力拡大は,後白河院・摂関家など既成勢力の反発を招き,治承年間(1177-81)に入ると鹿ヶ谷事件など平氏と院との暗闘が表面化する。後白河方の圧迫と平氏の院権力からの自立傾向が交錯するなかで,79年11月清盛は軍事クーデタを敢行し,反平氏方貴族を大量に処分,院政を一時停止し,軍事独裁政治を開始した。この軍事クーデタ以後,厳密な意味で平氏政権が成立したという見解が有力である。

1180年(治承4)2月高倉天皇が譲位,徳子の生んだ安徳天皇が即位して,清盛は天皇の外祖父の地位を得た。平氏政権を支えた基盤として,第一にこうした外戚関係があげられる。〈一門の公卿十六人,殿上人三十余人そのほか諸国の受領,衛府,諸司,都合六十余人〉(《平家物語》)と言われるように,他氏を犠牲として王朝の諸官職を独占したこと,クーデタ後平氏の知行国および平氏一門,有力家人らが国守につく国々が飛躍的に増加し,約30ヵ国に達したことも重要である。平氏はこのほか多数の荘園を所有し,日宋貿易を政権の基盤とした。平氏の荘園所領は全国500余ヵ所と言われ,その内容は預所(領家)職が多い。日宋貿易は忠盛以来の伝統を持っているが,清盛は兵庫大輪田泊の経島の築造をはじめ瀬戸内海航路の整備に力を入れ,これまで大宰府どまりであった宋船を大輪田泊まで引き入れるなど,貿易に積極的な姿勢を示し,その利益を平氏経済力の強化にあてた。11世紀中葉には完全にとだえていた銭貨の流通が国内で再開されたのは,平氏の対中国貿易に起因する。これに関連して平氏知行国の多くが山陽・南海・北陸・東海各道の海沿いの地域に分布していることも注目される。

 平氏は知行国として多数の国々を支配するかたわら,国衙機構を通して在地の武士たちを家人に組織し,そのうち一部は荘郷の地頭に補任された。ただし,平家の地頭は国主や荘園領主の好意として任じられたもので,平氏が補任の権を持たなかったから,本主の命に従わない場合には改替されるなど不安定であった。また平安末期の内裏大番制は国衙を通じて催促が加えられており,結果として平氏家人が大番を務めることがあっても,平氏家人制とは別次元で実施されたらしい。結局,平氏の家人制においては所領安堵,御恩・奉公の関係は十分な発展をみせなかったようで,鎌倉幕府のそれと比較すると不徹底なものにとどまった。

クーデタによって政権を掌握したことは,国家支配層内部における平氏の孤立をいっそう深刻なものとした。また知行国・荘園を大量に集積し,それをみずからの政治的・経済的基盤としたことは,国衙領・荘園の内部に醸成されつつあった社会的・政治的な諸矛盾を一手に引き受けることを意味しており,平氏と地方武士の対立は深まった。それゆえ1180年(治承4)以仁王・源頼政らが挙兵すると,内乱は急速に全国化し,源頼朝・義仲以下の反平氏勢力は強大な力を持つに至った。この間平氏は摂津和田(福原)京に遷都し,独自な政権樹立を構想したが失敗,還都して後白河院に院政の復活を要請した。同年末南都の東大寺・興福寺を焼き,翌年正月平宗盛を五畿内と伊賀・伊勢・近江・丹波諸国の惣官に任じ,有力家人を諸荘園総下司として態勢の立直しを図った。閏2月には一門の総帥清盛が病死。おりからの大飢饉でしばらく戦線は膠着したが,83年(寿永2)総力をあげた北陸道攻めに敗れて敗走。7月義仲の追撃を前に,天皇・神器を奉じて都を落ち西海に逃れた。同じころ,平氏支配下の安芸国に国衙機構の統轄者として一国勧農使を置くなど,なお地域的軍事政権志向の意欲をみせている。一時勢力を回復した平氏であるが,84年(元暦1)一ノ谷,85年(文治1)屋島で敗れ,同年3月壇ノ浦の海戦を最後に一族は滅亡した。
伊勢平氏 →治承・寿永の内乱
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平氏政権」の意味・わかりやすい解説

平氏政権
へいしせいけん

平安末期に平清盛(きよもり)が樹立した政権。平氏一門の居館の在所から六波羅(ろくはら)政権ということもある。

[飯田悠紀子]

成立過程

京都政界内の政争から起こった保元(ほうげん)・平治(へいじ)の両乱(1156、59)は、武力の重要性を政界内外に知らせる結果となり、源義朝(よしとも)を破った平清盛が唯一最高の武家棟梁(とうりょう)に成り上がった。清盛は「武」を担当する権門の一つ(軍事権門)として、国家権力の一翼を担うこととなる。この「武」を背景に清盛とその一門は中央政界に地歩を固め、清盛自身は1167年(仁安2)武家として初めて太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位の極官を得た。また清盛妻時子の妹滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))は後白河(ごしらかわ)院との間に高倉(たかくら)天皇を産み、高倉天皇と清盛女(むすめ)徳子(とくこ)(建礼門院(けんれいもんいん))との間の皇子が即位(安徳(あんとく)天皇)すると、清盛は天皇外祖父の地位を得ることになる(1180)。清盛の女(むすめ)のうち盛子は関白藤原基実(もとざね)室となって基実死後その遺領を伝領、盛子の妹寛子は基実子基通(もとみち)の室になるなど、有力貴族との婚姻を結んでいる。

[飯田悠紀子]

独裁政権

平氏一門の人々は、それぞれに官位を進め、多くの知行主(ちぎょうしゅ)・国守(こくしゅ)の地位を獲得し、荘園(しょうえん)の集積をも図った。そのことが旧勢力の政治的・経済的基盤を侵略することとなり、院・貴族・寺社は反平氏という立場でしだいに結束を強めてゆく。さらに地方在地武士も、彼らの利害を代表しえない平氏に、抵抗を示し始める。そのようななかで起こったのが、院近臣が平氏倒滅を図った鹿ヶ谷(ししがたに)事件(1177)。こののち院と平氏との対立は深刻化し、1179年(治承3)には清盛がクーデターを敢行して後白河院を幽閉した。これを機に平氏の独裁的武断政治が展開されることとなるが、一方では反平氏の動きも活発化する。翌80年5月以仁(もちひと)王の挙兵があり、8月には源頼朝(よりとも)・同義仲(よしなか)が挙兵、以後諸国に在地武士が兵をあげ、内乱状態が招来された。これに対し平氏は福原遷都や南都焼打ちで対抗したが事態は好転せず、81年(養和1)清盛病死と前後して総管(そうかん)・総下司(そうげし)設置などによって畿内(きない)近国の軍事体制の再建を図った。しかし時流は押しとどめようもなく、83年(寿永2)7月源義仲の入京を前に、平宗盛(むねもり)は安徳天皇を奉じ一門を率いて西国(さいごく)に逃れた。2年後3月に壇ノ浦(だんのうら)で族滅されるまで、一門は屋島を本拠として、一時は京へ迫る勢いを示したが、結局一ノ谷、屋島と敗れ、ふたたび政治権力を回復することはできなかった。

[飯田悠紀子]

狭義の平氏政権

厳密な意味で平氏が政治権力を自らのものとし、政策を専断しうるようになったのは、1179年のクーデター以後である。したがって狭義に平氏政権を政権として規定する場合には、このクーデター後をさしていう。「一門公卿(くぎょう)十余人、殿上人(てんじょうびと)三十余人」「平家知行(ちぎょう)の国三十余、既に半国に及べり」(『平家物語』)という繁栄は、このクーデター以後に実現されたものである。また京中に禿童(かむろ)をスパイとして放ち、反平氏分子の摘発を図ったのもこの時期のことと思われる。平家没官領(もっかんりょう)は500余か所あったといわれるが、その中核は上位権力者を本家(ほんけ)に仰ぐ領家職(りょうけしき)・預所(あずかりどころ)職の形態をとるものであった。しかし平家の専権化が進んでからは、上位領有権者をもたない、すなわち平家を本所(ほんじょ)とする荘園も出現している。クーデター後、平家は中央政界での発言権を絶対化するというだけでなく、質的にも権力者としての色彩を変えていったのである。

[飯田悠紀子]

基盤と特色

清盛が台頭しうる基盤は、すでに祖父正盛(まさもり)・父忠盛(ただもり)の時代に形成されていた。彼らは白河・鳥羽(とば)両院政下で西国の守(かみ)を歴任し、西国の賊徒を追捕(ついぶ)し、西国の院領支配の一翼を担って、政治力と経済力とを伸張させた。対宋(そう)貿易にかかわりをもつようになったのも、このころのことである。したがって保元・平治以前の平氏は、その勢力基盤を西国に置き、その特質は滅亡まで変わらなかった。しかし両乱後の一門による国司歴任をみてみると、意外なことに東国や北陸での知行主・国守在任が長い。それは軍事権門として国家軍制を担うことになった平氏が、地方軍事力の組織化を国衙(こくが)軍制を通して強めようとした現れとみることができる。とくに源氏の基盤たる東国武士をいかに編成するかは重要な急務であったであろう。

 このほか地頭(じとう)の設置もみられるが、これは組織化・体制化されたものではなく、一部の地域で荘園領主の「私の芳志」として設置されたにすぎなかった。さらに1181年(養和1)には畿内・近国を対象に総管職(そうかんしき)・総下司(そうげし)職が設置された。これは後の鎌倉幕府の守護・国地頭につながるものとして注目されている。時期があまりに切迫してからの設置なので、実際にどの程度の効力があったかは疑問であり、また鎌倉幕府の制度化されたそれとは比較すべくもないが、先の地頭といい、この総管・総下司といい、その先駆形態がみられるという点は見逃すことができない。

[飯田悠紀子]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平氏政権」の意味・わかりやすい解説

平氏政権
へいしせいけん

平安時代末期に平清盛が築いた政権。その邸宅が京都の六波羅にあったので,六波羅政権ともいう。平氏は保元・平治の乱をきっかけとして中央政界に進出し,仁安2(1167)年には清盛が太政大臣になったのをはじめ,一族の多くが公卿殿上人となって国政に参与し,政治を左右する勢力となった。その経済的基礎は,30余の知行国,500余の荘園,対宋貿易などにあったという。律令体制内での栄進によって権力を握るという点では摂関家藤原氏に類似しているが,平氏政権の特性は軍事的独裁制であったことにある。平氏の貴族化は必然的に旧来の貴族たちとの対立を招き,その経済的基盤が荘園にあったことはほかの荘園領主,たとえば社寺との抗争を生じた。平氏の軍事的独裁はますます反対勢力を増し,しかもその武力の基礎となるべき地方武士も平氏の貴族化に伴って離反する傾向にあった。こうして平氏はしだいに孤立していった。治承3(1179)年後白河院を鳥羽殿に幽閉し,院政を停止して一時廟堂の実権を全面的に掌握したが,翌年源頼朝以下諸国源氏の蜂起で家運は急速に傾き,養和1(1181)年清盛が死んだあと,寿永2(1183)年には木曾義仲に京都を追われ,元暦2(1185)年長門壇ノ浦で源義経の軍に破られ一族は滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平氏政権」の解説

平氏政権
へいしせいけん

六波羅(ろくはら)政権とも。平安末期,伊勢平氏の平清盛によって確立された政治権力。白河・鳥羽両院政に武的親衛隊として登用されて急速に武門としての力を伸ばした伊勢平氏は,保元・平治の両内乱を通じて源氏をおさえ,国政を動かす重要な勢力に成長した。1167年(仁安2)の後白河法皇による清盛の太政大臣就任により,平氏は事実上朝政のヘゲモニーを確立した。その権力は,従来の太政官機構に依拠しながら一族を顕官要職につけるとともに,知行国(ちぎょうこく)や膨大な荘園を支配し,武門の棟梁(とうりょう)として国家守護の任をにない,それらのシステムに寄生しながら地方武士との間に固有の主従制を築こうとするところに特徴があり,最初の武家政権としての矛盾にみちた性格をよく示している。後白河院政とは長く協調関係にあったが,77年(治承元)鹿ケ谷(ししがたに)の謀議の発覚以後は溝を深め,79年のクーデタで院政を停止し,軍事独裁体制を樹立した。近年はこれを重視して,平氏政権の本格的開始をこのクーデタに求める見解も少なくない。クーデタにより一時平氏の支配は強化されたが,かえって本来の矛盾が露呈し,武士・寺社勢力からの反発をかった。翌80年には源氏の挙兵を許し,やがて83年(寿永2)の木曾義仲の入京により都落ちを余儀なくされ,85年の壇ノ浦(現,山口県下関市)の戦によって,完全に源氏に追討されて消滅した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平氏政権」の解説

平氏政権
へいしせいけん

平安末期の平治の乱(1159)後に平清盛が樹立した政権
藤原氏の摂関政治を踏襲して貴族化し,清盛は娘徳子を入内させて天皇の外戚となった。多くの知行国や荘園を所有し,日宋貿易を開拓して政治的・経済的基盤を強化した。しかし後白河院・貴族・寺院勢力の反感を招き,一般武士からも遊離して,清盛の死後,1183年に源義仲に都を追われて没落し,'85年壇の浦の戦いで源氏の軍勢に敗れて滅んだ。

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百科事典マイペディア 「平氏政権」の意味・わかりやすい解説

平氏政権【へいしせいけん】

平氏平清盛

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世界大百科事典(旧版)内の平氏政権の言及

【宋】より

…たとえば,宋人の滞在する別荘に後白河法皇の御幸を求めたり(1170),1172年(承安2)に明州刺史から法皇および清盛に贈物があったときも,貴族には受け取るべきではないという意見が強かったが,清盛はこれを受納したうえ,返書および律令で国外への搬出を禁じられている武器を贈っている。このような清盛を中心とした平氏政権の開国的性格は鎌倉幕府にも引き継がれ,3代将軍源実朝はみずから渡宋を企てたほどである。また宋商人の中には,博多など貿易上の要地に居留し,地方豪族と姻戚関係を結ぶものも現れてきた。…

※「平氏政権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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