ごとう‐しろべえ【後藤四郎兵衛】
- 金工、のち大判座・分銅座の管理者。初代祐乗(ゆうじょう)が四郎兵衛尉をなのったところから、七代を除き、代々後藤本家当主の通称となる。大判座後藤、分銅後藤、目貫(めぬき)後藤などと呼ばれ、江戸幕末の一七代典乗まで続いた。
- [ 一 ] 初代。祐乗。名は正奥。美濃の人。足利義政に仕え、彫金、特に目貫の名匠として有名。永享一二~永正九年(一四四〇‐一五一二)
- [ 二 ] 四代。光乗。名は光家。京都の人。織田信長に仕え、大判分銅の役をつとめる。享祿二~元和六年(一五二九‐一六二〇)
- [ 三 ] 五代。徳乗。名は光次。筑前に生まれ、京都に住む。豊臣秀吉、徳川家康に仕え、大判、小判を鋳造。寛永八年(一六三一)没。
- [ 四 ] 一一代。通乗。名は光寿。家法に工夫を加えて、町彫風に似た通乗風を創始。寛文三~享保六年(一六六三‐一七二一)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の後藤四郎兵衛の言及
【大判座】より
…江戸時代の[大判]鋳造所。江戸幕府の金貨幣は,御金改役後藤庄三郎支配の[金座]で造られたが,大判だけは当初から京都の後藤四郎兵衛を中心とする大判座で造られていた。四郎兵衛は,彫金をもって足利義政に仕えた後藤祐乗を祖としているが,豊臣秀吉のとき[天正大判]を造ったのは5代目[後藤徳乗]であり,あるいは4代目光乗の弟吉高であった。…
【後藤庄三郎】より
…むしろ,京都にあって豊臣秀吉のもとで大判吹きに従っていた後藤徳乗の弟子山崎庄三郎というのが正しいであろう。1593年(文禄2)秀吉からの下命をうけて徳川氏のために関東へ下ったが,これは,師家後藤四郎兵衛徳乗(光基)の養子となり,後藤家代々の名のり〈光〉の一字を許されて光次と称し,徳乗の名代として下ったものであった。95年武蔵墨書小判を造り,1600年(慶長5)から小判,一分金を造っている。…
※「後藤四郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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