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室町幕府第8代将軍。義教(よしのり)の子。永享(えいきょう)8年正月2日生まれ。1443年(嘉吉3)7月21日兄の義勝(よしかつ)が死去したことにより後嗣(こうし)となる。最初義成(よししげ)と称して1449年(宝徳1)4月元服、4月29日征夷(せいい)大将軍を宣下(せんげ)される。1453年(享徳2)6月13日義政と改名。極官は従(じゅ)一位、左大臣、准三宮(じゅさんぐう)。贈太政大臣(だいじょうだいじん)。1473年(文明5)12月将軍職を子義尚(よしひさ)に譲り隠居。義政は8歳で家督を継いだが、幕府の主導権は畠山持国(はたけやまもちくに)、細川勝元(かつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)らの宿老が握り、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以来の危機的な状況を乗り切ろうとする宿老中心の政治体制であった。義政時代の初期には奉公衆の充実を図るため将軍直轄軍を整備するなど、将軍権力の強化に意を注いだ。しかし、この期における政治的、社会的矛盾の激化は幕府支配体制の根本を揺さぶり始めていた。中央政界では幕府権力を支える守護家内部に内紛が噴出し、家督をめぐる抗争が続発し始める。この内紛は管領(かんれい)家である畠山、斯波(しば)の両家にも及び、重大な情勢となっていく。そもそもこのような争いは領国内の国人(こくじん)が領国内における自己の主導権を確立しようとして起こすことが多く、地方においても国人相互の対立があらわになり、自立的動きをみせ始めてきていることを示している。また各地に民衆が徳政を求めて蜂起(ほうき)し、徳政一揆(いっき)が頻発していた。さらに1459年(長禄3)以後、寛正(かんしょう)の大飢饉(ききん)とよばれる飢饉が起こり、疫病と飢餓が蔓延(まんえん)していた。中央、地方の区別なく政治的社会的混乱が深まりつつあるとき、義政はこのような状況をも顧みず、猿楽(さるがく)、遊山、酒宴などの遊興に身をゆだね、そのためにあらゆる機会をつかんで収奪を強行した。このような情勢のなかで分裂は将軍家にも現れた。義政は1464年(寛正5)弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を義視(よしみ)と名のらせ後嗣としたのであるが、翌1465年夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を産んだため、富子と義視との間に争いが起こり、細川勝元と山名宗全(そうぜん)の幕府内部における勢力争いと結び付き、さらに斯波、畠山の内紛も加わって、幕府を二分する応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)したのである。乱の最中、義政は将軍職を義尚に譲り逃避の風流生活に入った。京都の東山(ひがしやま)に山荘を造営し、義満の金閣に擬した銀閣を建て、1483年(文明15)ここに移り住んだ。この時期、禅宗の影響を強く受けた水墨画、茶、連歌、能、いけ花など、高い価値をもった文化が開花した。この文化を一般に東山文化とよんでいる。延徳(えんとく)2年正月7日没。法号は慈照院道慶喜山(じしょういんどうけいきざん)。
[伊藤喜良]
『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』
室町幕府8代将軍。1449-73年(宝徳1-文明5)在職。6代将軍義教の子,7代将軍義勝の同母弟。母は日野重光の女重子。1441年(嘉吉1)いわゆる嘉吉の乱で義教が横死し,ついで43年義勝も夭死したため家督を継ぐ。46年(文安3)後花園天皇から義成(よししげ)と命名される。49年15歳で元服,征夷大将軍となる。53年(享徳2)義政と改名。60年(寛正1)左大臣,64年准三宮となる。征夷大将軍就任のとき判始の儀式を行ったが,実際に御判御教書を発給するのは1455年ころからである。しかし実権を握り庶政をみたのは管領や山名氏など有力大名と政所執事伊勢氏であった。57年ころよりは伊勢氏の支持によって将軍勢力が強まり,伊勢貞親主導による守護大名抑制政策が行われたが,その過程で畠山・斯波家内の相続争いが利用され,応仁・文明の乱の一因となった。義政は政治力がなく,頼みの伊勢貞親が66年(文正1)大名らの反発により失脚すると,政治収拾は困難となり応仁の乱に突入した。これより先1464年(寛正5)義政は僧籍にあった弟義尋を還俗させて義視と改名,継嗣に定めたが,翌年室日野富子に実子義尚が生まれたことから継嗣争いが起こったことと,幕閣における細川勝元と山名持豊(宗全)の対立とが,67年(応仁1)の大乱を決定的にした。山名持豊は義視をむかえて,義政・勝元と対抗した。京都での戦乱は77年(文明9)一応収まったが,戦乱はしだいに地方に広がり全国的規模となった。この間義政は1473年12月子義尚に将軍職を譲り,83年京都東山に山荘を営んでここに移り住み,東山殿と称された。85年月翁周鏡を戒師として剃髪,89年(延徳1)山荘内にいわゆる銀閣を建てた。同年近江に六角氏征伐のため出陣していた子義尚に先立たれ,政務をみることとなったが,後を追うように翌年1月7日没した。法号は慈照院喜山道慶。義政は,晴天の日には快笑するが,曇雨の日はふきげんであったと伝えられるように,おそらく精神病の気があり,また意志薄弱で移り気であったらしい。このため政治的混迷を深めたが,他方,その現実逃避の性向から,晩年政治を遠ざかって宗教や芸術に没頭したため,わび・さびを特色とする東山文化が栄える因をなした。
執筆者:百瀬 今朝雄
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(今谷明)
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1436.1.2~90.1.7
室町幕府の8代将軍(1449.4.29~73.12.19)。6代義教(よしのり)の子,母は日野重子。初名義成(よししげ)。法名慈照院喜山道慶。従一位左大臣・准三宮・贈太政大臣。同母兄義勝の早世で後嗣となる。当初,管領畠山持国・細川勝元が幕政を主導したが,成長とともに将軍親裁の傾向を強め,政所執事伊勢貞親を重用して守護大名抑制策を進めた。1466年(文正元)諸大名が共同して貞親を失脚させると,義政の政治的基盤は弱体化し,翌年畠山氏の家督争いに際し双方の実力による解決を容認するにいたる。これが細川勝元・山名持豊の対立を激化させ,大名勢力を二分する応仁・文明の乱の勃発を招いた。73年(文明5)嫡子義尚に将軍職を譲り,83年東山山荘に移って東山殿と称されたが,義尚の近江出陣まで政務に関与し続けた。89年(延徳元)義尚の死で再度執政するが,翌年病没。芸能風流を好み,芸能者・文化人を庇護するなど,東山文化の興隆を支えた。家集「源義政公集」。
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…大館満冬の娘。足利義政の愛妾説と乳母説があり,後者が有力。上﨟局,御今。…
…
[将軍家の家督争い]
第3の原因となったのは,将軍家の家督争いである。将軍足利義政は,最初男子に恵まれなかったために,64年(寛正5)に弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ,義視と名のらせて正式に義政の後継者とした。ところが,その翌年に正妻日野富子との間に,男子の出生を見た。…
…通称銀閣寺,正式には東山慈照禅寺。1490年(延徳2),足利義政の菩提を弔うため,如意嶽のふもとに義政が営んだ東山殿(ひがしやまどの)(東山山荘)を禅寺に改めて開創された。世にいう東山文化を象徴する寺である。…
…3月末以後麦が飢えをいやしていったが,疫病がはやり庶民のみならず公家武家からも疫死者が出た。公的救済策はなされず,時衆願阿弥による都でのあわ粥施与事業が知られるが,飢饉をよそに将軍足利義政が御所造営事業などの奢侈にふけっていたことは有名である。この飢饉の中で応仁・文明の乱の発端となる両畠山家の衝突が起きている。…
…〈ひがしやまぎょぶつ〉とも呼ばれる。狭義には東山殿と呼ばれた将軍足利義政の収集品をさすが,広くは足利将軍家の所蔵した,おもに唐絵(からえ)(宋元画)を中心とする美術工芸品をいう。徳川将軍家の所蔵品を柳営御物と呼ぶのに対しての呼称といえる。…
…足利義政が応仁・文明の乱後,東山山荘(慈照寺銀閣はその遺構)を営み東山殿と称されたのにちなみ,15世紀後半期の文化をいう。足利義満の北山山荘(鹿苑寺金閣はその遺構)にちなむ,室町前期の北山文化に対する呼称であるが,義政の芸術的な資質に対する評価から,この時代を文化的な高揚期とみなす見方は早くからあった。…
※「足利義政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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