足利義政(読み)アシカガヨシマサ

デジタル大辞泉 「足利義政」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしまさ【足利義政】

[1436~1490]室町幕府第8代将軍。在職1449~1474。義教よしのりの子。初め弟義視よしみを養子としたが、実子の義尚よしひさが生まれるとこれを将軍にしようとして応仁の乱の一因となった。芸術の愛好保護、銀閣の建立などにみられるこの時代の文化を東山文化とよぶ。東山殿

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精選版 日本国語大辞典 「足利義政」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしまさ【足利義政】

  1. 室町幕府第八代将軍。義教の子。初名義成(よししげ)。文安六年(一四四九)四月、嘉吉三年(一四四三)義勝の早世以後空位であった将軍職を継承した。享徳二年(一四五三)義政と改名。妻は日野富子。応仁元年(一四六七)五月、いわゆる応仁の乱が起こり執政が乱れた。文明五年(一四七三)将軍職を義尚(よしひさ)に譲る。京都の東山に山荘を造営し銀閣寺慈照寺)、東求堂を建て、同一五年ここにうつり、東山殿と称された。同一七年出家。永享八~延徳二年(一四三六‐九〇

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百科事典マイペディア 「足利義政」の意味・わかりやすい解説

足利義政【あしかがよしまさ】

室町幕府8代将軍。在職は1449年−1473年。義教(よしのり)の子。初め弟義視(よしみ)を養嗣子としたが,実子義尚(よしひさ)が生まれ,これを家督にしようとしたため応仁の乱が起こった。1473年将軍職を義尚に譲り,京都東山に隠居。のちここに慈照寺(銀閣寺)を建て,戦乱をよそに茶の湯,絵画など風雅な生活を送り,いわゆる東山文化が栄える契機となった。→日野富子長禄・寛正の飢饉
→関連項目足利氏足利義尚足利義視五十嵐家伊勢貞親応仁・文明の乱大館氏狩野正信幸阿弥家香道後藤祐乗後花園天皇善阿弥大文字の送り火東山山荘細川勝元村田珠光名物

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義政」の意味・わかりやすい解説

足利義政
あしかがよしまさ
(1436―1490)

室町幕府第8代将軍。義教(よしのり)の子。永享(えいきょう)8年正月2日生まれ。1443年(嘉吉3)7月21日兄の義勝(よしかつ)が死去したことにより後嗣(こうし)となる。最初義成(よししげ)と称して1449年(宝徳1)4月元服、4月29日征夷(せいい)大将軍を宣下(せんげ)される。1453年(享徳2)6月13日義政と改名。極官は従(じゅ)一位、左大臣、准三宮(じゅさんぐう)。贈太政大臣(だいじょうだいじん)。1473年(文明5)12月将軍職を子義尚(よしひさ)に譲り隠居。義政は8歳で家督を継いだが、幕府の主導権は畠山持国(はたけやまもちくに)、細川勝元(かつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)らの宿老が握り、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以来の危機的な状況を乗り切ろうとする宿老中心の政治体制であった。義政時代の初期には奉公衆の充実を図るため将軍直轄軍を整備するなど、将軍権力の強化に意を注いだ。しかし、この期における政治的、社会的矛盾の激化は幕府支配体制の根本を揺さぶり始めていた。中央政界では幕府権力を支える守護家内部に内紛が噴出し、家督をめぐる抗争が続発し始める。この内紛は管領(かんれい)家である畠山、斯波(しば)の両家にも及び、重大な情勢となっていく。そもそもこのような争いは領国内の国人(こくじん)が領国内における自己の主導権を確立しようとして起こすことが多く、地方においても国人相互の対立があらわになり、自立的動きをみせ始めてきていることを示している。また各地に民衆が徳政を求めて蜂起(ほうき)し、徳政一揆(いっき)が頻発していた。さらに1459年(長禄3)以後、寛正(かんしょう)の大飢饉(ききん)とよばれる飢饉が起こり、疫病と飢餓が蔓延(まんえん)していた。中央、地方の区別なく政治的社会的混乱が深まりつつあるとき、義政はこのような状況をも顧みず、猿楽(さるがく)、遊山、酒宴などの遊興に身をゆだね、そのためにあらゆる機会をつかんで収奪を強行した。このような情勢のなかで分裂は将軍家にも現れた。義政は1464年(寛正5)弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を義視(よしみ)と名のらせ後嗣としたのであるが、翌1465年夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を産んだため、富子と義視との間に争いが起こり、細川勝元と山名宗全(そうぜん)の幕府内部における勢力争いと結び付き、さらに斯波、畠山の内紛も加わって、幕府を二分する応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)したのである。乱の最中、義政は将軍職を義尚に譲り逃避の風流生活に入った。京都の東山(ひがしやま)に山荘を造営し、義満の金閣に擬した銀閣を建て、1483年(文明15)ここに移り住んだ。この時期、禅宗の影響を強く受けた水墨画、茶、連歌、能、いけ花など、高い価値をもった文化が開花した。この文化を一般に東山文化とよんでいる。延徳(えんとく)2年正月7日没。法号は慈照院道慶喜山(じしょういんどうけいきざん)。

[伊藤喜良]

『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「足利義政」の意味・わかりやすい解説

足利義政 (あしかがよしまさ)
生没年:1436-90(永享8-延徳2)

室町幕府8代将軍。1449-73年(宝徳1-文明5)在職。6代将軍義教の子,7代将軍義勝の同母弟。母は日野重光の女重子。1441年(嘉吉1)いわゆる嘉吉の乱で義教が横死し,ついで43年義勝も夭死したため家督を継ぐ。46年(文安3)後花園天皇から義成(よししげ)と命名される。49年15歳で元服,征夷大将軍となる。53年(享徳2)義政と改名。60年(寛正1)左大臣,64年准三宮となる。征夷大将軍就任のとき判始の儀式を行ったが,実際に御判御教書を発給するのは1455年ころからである。しかし実権を握り庶政をみたのは管領や山名氏など有力大名と政所執事伊勢氏であった。57年ころよりは伊勢氏の支持によって将軍勢力が強まり,伊勢貞親主導による守護大名抑制政策が行われたが,その過程で畠山・斯波家内の相続争いが利用され,応仁・文明の乱の一因となった。義政は政治力がなく,頼みの伊勢貞親が66年(文正1)大名らの反発により失脚すると,政治収拾は困難となり応仁の乱に突入した。これより先1464年(寛正5)義政は僧籍にあった弟義尋を還俗させて義視と改名,継嗣に定めたが,翌年室日野富子に実子義尚が生まれたことから継嗣争いが起こったことと,幕閣における細川勝元と山名持豊(宗全)の対立とが,67年(応仁1)の大乱を決定的にした。山名持豊は義視をむかえて,義政・勝元と対抗した。京都での戦乱は77年(文明9)一応収まったが,戦乱はしだいに地方に広がり全国的規模となった。この間義政は1473年12月子義尚に将軍職を譲り,83年京都東山に山荘を営んでここに移り住み,東山殿と称された。85年月翁周鏡を戒師として剃髪,89年(延徳1)山荘内にいわゆる銀閣を建てた。同年近江に六角氏征伐のため出陣していた子義尚に先立たれ,政務をみることとなったが,後を追うように翌年1月7日没した。法号は慈照院喜山道慶。義政は,晴天の日には快笑するが,曇雨の日はふきげんであったと伝えられるように,おそらく精神病の気があり,また意志薄弱で移り気であったらしい。このため政治的混迷を深めたが,他方,その現実逃避の性向から,晩年政治を遠ざかって宗教や芸術に没頭したため,わび・さびを特色とする東山文化が栄える因をなした。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義政」の解説

足利義政

没年:延徳2.1.7(1490.1.27)
生年:永享8.1.2(1436.1.20)
室町幕府第8代将軍。父は義教で義勝の同母弟,母は日野重子。幼名三春丸。嘉吉3(1443)年7月兄の急死により,わずか8歳の幼少で細川持賢,畠山持国,山名持豊ら宿老に擁立されて家督を継ぐ。文安3(1446)年末義成と名乗り従五位上に叙任,2年後左馬頭,翌年元服し将軍に任官,参議・左中将を兼ねる。享徳2(1453)年6月義政と改名。寛正1(1460)年8月左大臣,同5年准后宣下を受く。執政当初は父義教の大名抑圧策の反動で畠山,斯波ら有力守護家に家督紛争が頻発し,関東も上杉氏と公方の反目で戦乱状態となり,幕府の統制は全く緩んでいた。政務の主導権は生母重子,乳母今参局らに握られ,康正1(1455)年に日野富子と結婚したのちは富子の兄勝光や,蔭涼軒(季瓊)真蘂,政所執事伊勢貞親らが幕政に容喙,義政は政務に意欲を失って社寺巡礼や別荘の造営に憂き身をやつす始末であった。 寛正2(1461)年には大飢饉の最中に梅津山荘の建築を行い,後花園天皇から詩をもって諷諫されている。同5年に弟義視を継嗣としたが,翌年富子が義尚を生むと富子は山名宗全と結んで義視排斥に動き,これが応仁の大乱の原因となった。義政の政治逃避と前後して富子が政治力を持ち,大乱中は勝光,富子の兄妹が幕政を壟断した。文明5(1473)年末には嫡子義尚に将軍を譲るが,実権は理財の才に優れた妻富子が握り,夫婦の仲も冷え切った。同15年有名な東山山荘を造営して隠遁,以後東山殿と称された。義尚が延徳1(1489)年近江陣中に没すると政務に復帰したが,幕政を立て直せぬまま翌年病死。父に似ず無気力な性格で,大乱の張本人として後世史家の指弾厳しいが,芸術面で卓抜した指導力と鑑識眼を発揮し,猿楽師音阿弥,河原者善阿弥,画家小栗宗湛,同朋衆相阿弥など優れた芸術家を育て,世に東山文化と総称される。また「同仁斎」扁額の命名で知られるように平等博愛思想を標榜し,被差別民の登用も行った。<参考文献>芳賀幸四郎『東山文化』,河合正治『足利義政』,永島福太郎『応仁の乱』

(今谷明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義政」の意味・わかりやすい解説

足利義政
あしかがよしまさ

[生]永享8(1436).1.2. 京都
[没]延徳2(1490).1.7. 京都
室町幕府8代将軍 (在職 1449~73) 。義教の次男。母は日野重子。初名は義成。嘉吉3 (1443) 年兄の将軍義勝病死ののち,管領畠山持国その他の大名らの決により将軍継嗣と定められた。宝徳1 (49) 年元服し,征夷大将軍となる。享徳2 (53) 年義政と改名。寛正5 (64) 年弟の僧義尋を還俗させて義視と改名させ,継嗣と定めたが翌年,妻日野富子が男子 (義尚) を出産し,富子が義尚の将軍襲職を望んだことから応仁の乱の一因となった。文明5 (73) 年将軍職を義尚に譲り,のち京都東山に山荘を造って隠居したので,世人は東山殿と呼んだ。延徳1 (89) 年将軍義尚病死ののち再び政務をとったが,翌年病死した。 (→東山文化 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義政」の解説

足利義政
あしかがよしまさ

1436.1.2~90.1.7

室町幕府の8代将軍(1449.4.29~73.12.19)。6代義教(よしのり)の子,母は日野重子。初名義成(よししげ)。法名慈照院喜山道慶。従一位左大臣・准三宮・贈太政大臣。同母兄義勝の早世で後嗣となる。当初,管領畠山持国・細川勝元が幕政を主導したが,成長とともに将軍親裁の傾向を強め,政所執事伊勢貞親を重用して守護大名抑制策を進めた。1466年(文正元)諸大名が共同して貞親を失脚させると,義政の政治的基盤は弱体化し,翌年畠山氏の家督争いに際し双方の実力による解決を容認するにいたる。これが細川勝元・山名持豊の対立を激化させ,大名勢力を二分する応仁・文明の乱の勃発を招いた。73年(文明5)嫡子義尚に将軍職を譲り,83年東山山荘に移って東山殿と称されたが,義尚の近江出陣まで政務に関与し続けた。89年(延徳元)義尚の死で再度執政するが,翌年病没。芸能風流を好み,芸能者・文化人を庇護するなど,東山文化の興隆を支えた。家集「源義政公集」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義政」の解説

足利義政 あしかが-よしまさ

1435-1490 室町幕府8代将軍。在職1449-74*。
永享7年1月2日生まれ。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。文安6年将軍職につくが,畠山(はたけやま)持国,細川勝元ら宿老中心の政治をきらい遊興にふける。寛正(かんしよう)5年弟義視(よしみ)を後嗣にさだめたが,妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだため,後継者争いがおこり,応仁(おうにん)の乱に発展。乱中の文明5年義尚に将軍職をゆずり,のち京都東山にうつって東山殿とよばれる。銀閣寺,水墨画,能楽,生け花などに代表される東山文化をうみだした。延徳2年1月7日死去。56歳。幼名は三春。初名は義成。法号は慈照院。
【格言など】咲き満ちて花より外に色もなし(寛正6年の連歌会)

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義政」の解説

足利義政
あしかがよしまさ

1436〜90
室町幕府8代将軍(在職1449〜73)
義教 (よしのり) の子。嘉吉の乱後,将軍の権威が地に落ちた時代に将軍となる。幕府の財政難や土一揆の頻発に苦しみ,在職中13回も徳政令を発布して経済界を混乱させた。初め実子なく弟義視 (よしみ) を還俗 (げんぞく) させて後嗣としたが,翌年妻日野富子が生んだ義尚 (よしひさ) を将軍にたてようとし,継嗣問題から応仁の乱(1467〜77)がおこった。'73年戦乱中,義尚に将軍職を譲り,'83年京都東山の山荘に銀閣を造って移り住み,東山殿と呼ばれた。戦乱をよそに猿楽・茶の湯・絵画その他遊楽にふけり,東山文化を形成した。

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367日誕生日大事典 「足利義政」の解説

足利義政 (あしかがよしまさ)

生年月日:1436年1月2日
室町時代;戦国時代の室町幕府第8代の将軍
1490年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の足利義政の言及

【今参】より

…大館満冬の娘。足利義政の愛妾説と乳母説があり,後者が有力。上﨟局,御今。…

【応仁・文明の乱】より


[将軍家の家督争い]
 第3の原因となったのは,将軍家の家督争いである。将軍足利義政は,最初男子に恵まれなかったために,64年(寛正5)に弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ,義視と名のらせて正式に義政の後継者とした。ところが,その翌年に正妻日野富子との間に,男子の出生を見た。…

【慈照寺】より

…通称銀閣寺,正式には東山慈照禅寺。1490年(延徳2),足利義政の菩提を弔うため,如意嶽のふもとに義政が営んだ東山殿(ひがしやまどの)(東山山荘)を禅寺に改めて開創された。世にいう東山文化を象徴する寺である。…

【長禄・寛正の飢饉】より

…3月末以後麦が飢えをいやしていったが,疫病がはやり庶民のみならず公家武家からも疫死者が出た。公的救済策はなされず,時衆願阿弥による都でのあわ粥施与事業が知られるが,飢饉をよそに将軍足利義政が御所造営事業などの奢侈にふけっていたことは有名である。この飢饉の中で応仁・文明の乱の発端となる両畠山家の衝突が起きている。…

【東山御物】より

…〈ひがしやまぎょぶつ〉とも呼ばれる。狭義には東山殿と呼ばれた将軍足利義政の収集品をさすが,広くは足利将軍家の所蔵した,おもに唐絵(からえ)(宋元画)を中心とする美術工芸品をいう。徳川将軍家の所蔵品を柳営御物と呼ぶのに対しての呼称といえる。…

【東山文化】より

足利義政が応仁・文明の乱後,東山山荘(慈照寺銀閣はその遺構)を営み東山殿と称されたのにちなみ,15世紀後半期の文化をいう。足利義満の北山山荘(鹿苑寺金閣はその遺構)にちなむ,室町前期の北山文化に対する呼称であるが,義政の芸術的な資質に対する評価から,この時代を文化的な高揚期とみなす見方は早くからあった。…

※「足利義政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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