徳力村
とくりきむら
[現在地名]小倉南区徳力一―七丁目・徳力・徳力団地・企救丘一―六丁目・山手一―二丁目・志徳一―二丁目・徳力新町二丁目・南方一―三丁目・志井三丁目・同六丁目・守恒本町三丁目
北方村の南、紫川の中流右岸に位置し、南は紫川の中央より小嵐山を境に徳光村と接する。秋月街道が通る。元和八年人畜改帳に徳力村とみえ、高八二四石余、家数一〇一、人数二一一(うち百姓一〇・名子一九・坊主一・山ノ口一)、牛三〇・馬一七。正保国絵図では「上北方ノ内徳力」とみえ、元禄国絵図では徳力村内として須利が記される。
徳力村
とくりきむら
[現在地名]岩槻市徳力
慈恩寺村・表慈恩寺村の東、慈恩寺台地と谷地に立地し、集落は台地上に形成されている。江戸時代初期から正徳元年(一七一一)まで岩槻藩領(田園簿、宝永期岩槻藩五ヵ筋村高帳など)、以後は幕府領(「風土記稿」・改革組合取調書など)。田園簿に村名がみえ、高は田方一八三石余・畑方一三二石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数二四(本百姓二〇・水呑三・寺一)、人数一四九、岩槻藩の地方支配は高岩筋所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高三五〇石余、ほかに新田高一六石余、小物成は野銭永三八七文、見取場田九畝余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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