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岩槻藩 いわつきはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

岩槻藩
いわつきはん

江戸時代,武蔵国埼玉郡岩槻地方 (埼玉県) を領有した譜代小藩。高力 (こうりき) 氏2万石,青山氏4万 5000石,阿部氏9万 9000石,板倉氏5万石,戸田氏5万 1000石,松平氏4万 8000石,小笠原氏6万石,永井氏3万 2000石を経て,宝暦6 (1756) 年大岡忠光が入封してのち,大岡氏が8代にわたり2万~2万 3000石を領して廃藩置県に及ぶ。大岡氏は江戸城雁間詰。

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百科事典マイペディアの解説

岩槻藩【いわつきはん】

武蔵国埼玉郡岩槻に藩庁を置いた譜代藩。幕閣に連なる譜代大名の居城とされ,高力(こうりき)氏,青山氏,阿部氏,板倉氏,戸田氏,松平氏,小笠原氏,永井氏,大岡氏と藩主の交替が頻繁であった。
→関連項目日光御成道

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いわつきはん【岩槻藩】

江戸時代武蔵(むさし)国埼玉郡岩槻(現、埼玉県さいたま市岩槻区)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は勤学所。江戸近郊に位置する重要性から、藩主は幕政の要職を占めた譜代が頻繁に交替した。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、譜代の家臣高力清長(こうりききよなが)が2万石で入封(にゅうほう)、立藩した。高力3代のあと、青山忠俊(ただとし)(4万5000石)、阿部正次(まさつぐ)以下5代(5万石→9万9000石)、板倉重種(しげたね)(6万石)、老中戸田忠昌(とだただまさ)(5万1000石)、松平(藤井)忠周(ただちか)(4万8000石)、老中小笠原長重(ながしげ)以下2代(5万石→6万石)、永井直敬(なおひろ)以下3代(3万3000石)と続いた。1756年(宝暦(ほうれき)6)に大岡忠光(ただみつ)が2万石で入って以後は大岡氏8代が明治維新まで続いた。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に帰順、1871年(明治4)の廃藩置県により、岩槻県を経て埼玉県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

いわつきはん【岩槻藩】

武蔵国(埼玉県)埼玉郡に藩庁を置いた譜代小藩。江戸近郊に位置するため,歴代譜代大名が配され,1590年(天正18)高力(こうりき)清長が2万石で入封したのが藩の起りである。清長は,有力寺社への所領寄進,離散農民の帰住促進,市の保護など領内の再建に努めた。1609年(慶長14)徳川家康放鷹の際,清長の孫忠房は焼失した岩槻城三丸を急遽復興して宿館とし,以後城の中心は三丸に移った。19年(元和5)忠房が遠江浜松に移封後,一時朽木内膳正,新庄駿河守の番城となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

岩槻藩
いわつきはん

武蔵(むさし)国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。江戸の藩屏(はんぺい)として歴代譜代大名が配された。1590年(天正18)徳川氏関東入国後、高力清長(こうりききよなが)が戦国期以来の岩槻城に2万石で入封したのが当藩のおこりである。また浦和領1万石を預かる。清長は有力寺社や市(いち)の保護、離散農民の帰住奨励など領内の整備に努める。孫忠房(ただふさ)のとき1619年(元和5)遠州(静岡県)浜松に転封。一時朽木内膳正(くつきないぜんのしょう)、新庄駿河守(しんじょうするがのかみ)が番城、翌20年青山忠俊(ただとし)が4万5000石で入封したが、徳川家光(いえみつ)の忌諱(きき)に触れ23年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城に移封。かわって同年阿部正次(まさつぐ)が5万6000石で入封、重次、定高、正春、正邦(まさくに)と5代58年間続いた。この間加増分知があり、正春(定高弟、前大多喜新田藩主)のときには11万5000石に達した。正邦は1681年(天和1)丹後(たんご)(京都府)宮津(みやづ)9万9000石に転封。ついで西の丸老中板倉重種(しげたね)が6万石で入城したが、翌82年には老中戸田忠昌(とだただまさ)が5万1000石で、86年(貞享3)松平(藤井)忠周(ただちか)が4万8000石で入封し、さらに97年(元禄10)以降老中小笠原長重(おがさわらながしげ)・長煕(ながひろ)父子が6万石(入封時5万石)、1711年(正徳1)以降永井直敬(なおひろ)、尚平(なおひら)、直陳(なおのぶ)の3代が3万2000石で在城するなど、幕閣要職の江戸定府(じょうふ)の藩としての性格上、藩主交替が頻繁であった。1756年(宝暦6)大岡忠光(ただみつ)が2万石で入封。以後廃藩まで8代115年間在封した。5代忠正のとき、家臣児玉南柯(こだまなんか)が家塾遷喬館(せんきょうかん)を開き、のち藩校となる。6代忠固(ただかた)の1843年(天保14)家慶(いえよし)日光社参の宿館を勤め、45年(弘化2)江戸城復旧の功により3000石加増、幕末期の家臣は281人、ほかに足軽など100人余。1868年(明治1)官軍に帰順、71年廃藩、岩槻県となり埼玉県に統合された。[大村 進]

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