徳川郷(読み)とくがわごう

日本歴史地名大系 「徳川郷」の解説

徳川郷
とくがわごう

[現在地名]尾島町徳川

利根川北岸に位置し、西は平塚ひらづか(現佐波郡境町)、東は出塚いでづか村、北は世良田せらだ村。村央をはや川が東流する。利根川・早川氾濫のため集落はしばしば移動し、安定したのは大正一〇年(一九二一)の堤防完成以後という。文永五年(一二六八)五月三〇日、新田氏の祖義重の庶子世良田義季の子にあたる得川頼有は「新田庄内とくかわのかう」等その所領の大部分を、岩松経兼の妻となった娘を通じて孫亀王丸(のち岩松政経)へ譲った(「得川頼有譲状写」正木文書)。頼有の実子頼泰は但馬国へ本拠地を移したとみられ(「但馬国大田文」など)、以後新田庄内での得川氏の活動は見出せない。文和二年(一三五三)には「新田庄徳河」内の畠五町四段・在家三宇が足利尊氏から長楽ちようらく普光ふこう庵へ寄進された(同年三月一九日「足利尊氏寄進状」長楽寺文書)。この地は天野肥後二郎左衛門尉後家尼忍性および「神領(故カ)了見」の知行分であった。その後一五世紀半ばには徳川郷は畠山左馬助・同右馬助両人の知行となっていた(年月日未詳「新田庄内岩松方庶子方寺領等注文」正木文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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