関東地方を北西から南東へ貫流する関東最大の河川で、中流は埼玉県北部の群馬県境を流れる。古くは刀禰川・刀根川などとも記された。「万葉集」巻一四(上野国の歌)に「
利根川は水源を新潟県境に近い群馬県
烏川合流点付近から流れを東に変えた利根川は、本庄市付近から妻沼町付近までは沖積扇状地を流下し比較的広い氾濫原を形成するが、妻沼町東部の
県北端の
上野国内における利根川が現在の流路となったのは、中世の中頃以後である。それ以前は前橋市北端の
群馬県北端、新潟県境に近い標高一八三〇メートルの
古くは
と詠まれ、「太平記」には「利根河」「利根川」がみえている。また延享三年(一七四六)の「本朝俗諺志」に「
とあるように、日本三大河川の一つとして
常陸川は中利根川・下利根川を包括した呼称(下総旧事考)であるが、近世以前には
近世以前の利根川は群馬県から埼玉県東部・東京都東部を通って江戸湾(東京湾)に流入し、渡良瀬川もこれと並行して江戸湾に注いでいた。
群馬・新潟両県境に近い
古くは刀禰川・刀根川などとも記された。「万葉集」巻一四に「
この水面で古代から舟運のあったことは、承平六年(九三六)この川筋下流とみられる「広河の江」に船を浮べたとあること(将門記)、鎌倉期に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
越後山脈の大水上(おおみなかみ)山付近に源をもち,関東平野を北西から南東へ斜めに横断し,銚子付近で太平洋に注ぐ川。幹川流路延長は322kmで日本では信濃川に次ぐ長さであるが,全流域面積は1万6840km2で日本最大であり,栗橋観測点での流量(1982)は年平均255m3/s,最大7940m3/s,最小58.1m3/sである。坂東太郎とも呼ばれ,筑後川(筑紫二郎),吉野川(四国三郎)とともに日本三大河という。支流数は285で,おもな河川には赤谷(あかや)川,片品(かたしな)川,吾妻(あがつま)川,烏(からす)川,渡良瀬(わたらせ)川,鬼怒(きぬ)川,小貝(こかい)川などがあり,分流として江戸川がある。
今日の利根川は発生的に,利根川と鬼怒川の合併河川とみることができる。近世以前においては,現埼玉県加須市の旧大利根町佐波の少し上流から南下し,現在の古利根川筋を流下して東京湾に注いでいた。また渡良瀬川もこれと並行して東側を南流し,下流は太日(ふとい)川などと呼ばれており,鬼怒川,小貝川や常陸(ひたち)川(現,利根川下流)とは別水系であった。この利根川の本流を東へ東へと付け替え,太平洋に注ぐようにしたのは,近世初期より数度にわたって実施された,江戸幕府による改流工事であった。その最初は1621年(元和7)で,〈新川通り〉および〈赤堀川〉を開削して利根川を渡良瀬川に合流させ,常陸川筋へ落とそうとしたが,赤堀川の通水には失敗した。35年(寛永12)には現江戸川上流の開削に着手し,利根川,渡良瀬川の合流を現埼玉県幸手(さつて)市権現堂の北で東方に曲げてこの流頭に結び(権現堂川),その結節点から北に〈逆(さかさ)川〉を掘って下総国関宿の北で常陸川の上流と結んだ。この完成が41年という。しかし,逆川開削の意図に反して,権現堂川の本流を常陸川に流すことはできなかった。また常陸川筋では,1629年に,小貝川と合流して常陸川に流入していた鬼怒川を小貝川と分離し,常陸川への落口を約30kmばかり上流に移した。そして54年(承応3)ようやく赤堀川三番堀工事によって利根川本流が赤堀川を通って常陸川に流入し,はじめて利根川が銚子河口より太平洋に流出することとなった。この30年余にわたる利根川東遷工事の目的は,江戸を水害から守るため,新田開発のため,あるいは軍事的理由などの諸説もあるが,その第一は江戸を中心とする水運網の創出にあった。
執筆者:川名 登
利根川は源流より群馬県渋川市付近までは,山地を流れ,峡谷を形成している。このため上流地域には多くのダムが築造されている。また沿岸には所々に河岸段丘が発達し,集落や耕地など,山地における人々の生活空間となっている。渋川市から下流では関東平野を流れる。このうち前橋~伊勢崎間では,現在の川は前橋台地を幅の狭い谷をつくって流れるが,1532年(天文1)以前の流路は,前橋台地の東側と赤城南麓との間,現在の広瀬川低地を流れていた。この流路変更についてはいかにして行われたか明確でない。
広瀬川低地は扇状地の性質をもつ土地で,網状に流路の走る低地と,それらに囲まれた小高い微高地とからなっており,低地は水田,微高地は畑地として利用されている。伊勢崎市より下流では,北側の大間々扇状地や館林(たてばやし)台地と,南側の本庄・櫛挽(くしびき)台地との間に幅広い低地をつくって流れる。この地帯ははんらん原で,流路はいなずま状に蛇行し,流路の両側には中州や幅広い自然堤防がみられる。埼玉県妻沼(めぬま)町(現,熊谷市)付近より下流は,蛇行の形態はゆるやかになり,河岸に沿って幅の狭い自然堤防が延々と続いている。また,この地帯には,かつては自然堤防沿いの所々に河畔砂丘があったが,現在は開発のため切り取られて消滅したものが多い。全体的にはんらん原の地帯は,その名が示すように,洪水による破堤はんらんが最も多い地帯で,江戸時代以後の大きな洪水も,たびたびこの地帯で生じた。
近世の瀬替え以前の常陸川流域にあたる利根川下流地域は,かつての香取海(かとりうみ)の部分で,全体に平たんである。ここでは利根川は常総台地と下総台地の間を流れ,また霞ヶ浦,北浦,印旛(いんば)沼,手賀沼などの湖沼が存在し,末端は利根川と結びついている。この地域における利根川の傾斜は非常に緩く,湿地も多く,また三角州もみられ,全域が低湿な水郷地帯の観がある。この地域にみられる自然堤防は,埼玉県羽生市付近のものに比べて,形成の時期が新しく,規模も小さい。洪水は中流地域の破堤はんらんとは異なり,溢流はんらんが多い。一方,佐原市(現,香取市)から銚子市の間は川幅が広く,利根川はここをゆったり流れ,太平洋に注ぐ。
関東平野の北方および西方の山地に水源地域をもつ利根川は,台風による多量な降雨のため洪水が生ずる場合が多い。また,この流域には赤城山,浅間山といった火山がそびえるため,崩壊しやすい地質からなる地域が多く,洪水の際には大量の土砂が流出し,河床に堆積する。さらに流域面積が広いため,全体の流量は膨大で,一度洪水になると,その影響する範囲は非常に広い。江戸時代以後のおもな大洪水には次のようなものがある。
1742年(寛保2)8月の洪水で破堤した地点は,利根川中流部で合計16ヵ所もあり,はんらんした水は広い範囲に広がり,江戸市中まで達した(寛保2年江戸洪水)。83年(天明3)の浅間山噴火により,広い範囲にわたって多量の灰が降ったため,河床の上昇が著しく,1836年(天保7)までの54年間に,洪水は全体で24回も起こった。このうち1786年8月の洪水は,江戸時代に発生した洪水のなかでも,1742年の洪水と匹敵するぐらい大規模で,その水は江戸市中まで及んだ。
1910年8月の台風による豪雨で,利根川全川にわたって大きな被害を生じた。特に埼玉県熊谷市北西の中条(ちゆうじよう)堤の決壊によって生じた洪水は,東京に流入し,大きな被害を与えた。47年9月カスリン台風の豪雨による利根川の洪水流は,5日かかって埼玉東部平野を南下して東京に達した。利根川の洪水史を通してみると,埼玉県妻沼~羽生間,羽生~栗橋間,北川辺,渡良瀬川下流地域,小貝川下流地域,香取海周辺地域などではんらんが多いことがわかる。この場合,洪水の種類も小貝川から上流部は破堤,下流部は溢流とタイプが異なっている。特に,新たに利根川との合流点となった北川辺,渡良瀬川下流地域,小貝川下流地域,印旛沼や霞ヶ浦の結合地域は破堤による洪水の数がたいへん増加した。このため,この地域の民家は洪水に対して自己防衛をせまられ,小高い自然堤防上に集落を置いたり,さらに高く盛土をして,水塚(みつか)と称する洪水用の家屋をつくったりした。
利根川の洪水は,破堤あるいははんらん地点のみの水害だけでなく,中流地域の規模の大きな洪水は江戸(東京)にまで及ぶ水害となるため,利根川の治水は江戸時代においても,現代においても,非常に重要な意味をもつ。日本の他の河川に比して,緩やかな流路が長く,しかも関東造盆地運動の中心である埼玉県栗橋付近に多くの河川が集合するため,堤防のみで利根川の治水を考えることはかなり無理がある。近世から現在に至るまで行われてきた治水の根本は,利根川のもつこのような地形的特性を考慮したものである。1900年の改修以前の利根川治水は,江戸初期につくられた中条堤と,その南方の埼玉東部平野に散在する多くの〈領〉と称する水防単位によって行われた。中条堤はふつうの堤防と違って利根川の流路と直角に,右岸側の埼玉東部平野北端の熊谷扇状地東端と利根川との間につくられた堤防である。すなわち中条堤は利根川の左岸堤である文禄堤と一体になって,中条堤以北の右岸一帯の土地を遊水池とする役目をもっていた。このため利根川の多量の水は,洪水のたびに中条堤より上流の右岸地域にはんらんするので,ここより下流の利根川の流量は少なくなり,洪水防御になっていた。また,領は近世の瀬替え以前の旧利根川が埼玉東部平野につくった自然堤防と,それに囲まれた低湿地からなる皿状の微地形を基本単位として,一つ以上の村が結びついてつくった水防単位である。この構造は木曾川の輪中(わじゆう)と非常によく似ている。埼玉東部平野は,旧利根川が形成した平野であるため,いくつもの旧流路の両側には自然堤防が発達し,自然堤防に囲まれた土地は低湿地というように多数の微地形がみられる。このため,はんらんした水が埼玉東部平野を南下するとき,上流側の領に水をためながら,下流側の領に落としていく方式がとられた。すなわち一つ一つの領を遊水池として洪水流を南下させようとしたものと考えられる。このことによって洪水流は,埼玉東部平野ではんらんするとともに,江戸(東京)までの流下に非常に時間がかかった。この方式が江戸にまで及ぶ洪水の防御に役立ったことは,1900年以降の改修で現代の治水方式がとられるようになり,領の組織がいらなくなったのちに生じた1910年の大洪水に際しては,結果的にはこの微地形で水をため,あふれながら流下したことによく示されている。
現代の利根川の治水でも,単に堤防を築くだけでなく,他の河川とは異なる独特の方式がとられている。まず上流地域に1950年代から70年代にかけて藤原,薗原,矢木沢,下久保,草木などのダム群をつくって流水を調整する。中流地域には渡良瀬川遊水池をつくって本流に流入する支流の流量を調節する。下流地域には田中,菅生,稲戸井などの遊水池をつくり本流の流量を調整し,さらに江戸川や利根放水路の分流によって東京湾に流し,河口より流出する本流の流量を少なくする。
以上のような現代における利根川の治水方式をみると,遊水池をつくるなど江戸時代における領のような洪水制御方式がとられ,また分流によって本流の流量を少なくするなどして,二つの河川を人工的に結んだ利根川のもつ弱点を除こうとしていることが明らかである。
利水には電力,農業,工業,飲料水があげられるが,電力を除けば,利根川の利水は大まかに次の三つの地域に分けられる。
(1)前橋・高崎地域 この地域は,利水地域として広瀬川低地,前橋台地,赤城山などの火山麓がある。広瀬川低地を除けば,一般に水不足に悩む地域である。この地域の利根川は傾斜がかなり急であるため,利根川が関東平野に流れこむ地点に合口をつくって,利根川沿いに水を供給する方法をとった。これが坂東合口(1950完成)で,広瀬川低地の広瀬・桃木両用水,前橋台地を灌漑する天狗岩用水,赤城山麓を灌漑する大正用水などを分水する。さらに利根川総合開発の一環として,大正用水より上方の赤城山南麓や榛名山東麓,子持山南東麓を灌漑する群馬用水(1970完成。用水源は矢木沢ダムで貯水)が沼田市南西方の利根川で取水する。なお広瀬川は流量が非常に多いため,前橋市内ではいくつかの低落差発電所をつくり,電力を供給している。
(2)利根川中流地域 この地域の利水は,埼玉県行田市東方で利根川を横切る大合口の利根大堰(1968完成)で大半が取り入れられる。ここでは,埼玉東部の近世につくられた二大用水である見沼代用水と葛西(かさい)用水を取り入れるほか,東京都民や埼玉県民の飲料水源である武蔵水路(用水源は矢木沢ダム,下久保ダム,草木ダムで貯水)を分ける。この地域における利水の特色は,用水供給地域が旧利根川のつくった沖積平野であるため,二つの用水とも旧河川を利用していることである。したがって用水路の流向は,現利根川とは直角の方向をなす。
(3)房総地域 この地域で重要な利水事業は両総用水(1967完成)と大利根用水(1951完成)で,いずれも完成年度が新しい。両総用水は千葉県佐原市(現,香取市)で利根川から取水し,下総台地を横切って九十九里平野に出,利根川沿岸の低湿田の排水と九十九里平野の水田の用水不足の解消をはかったものである。しかし,高度経済成長期以降は東京湾岸の京葉工業地域の用水としての役割をもつように,その目的が変化している。大利根用水は九十九里平野北部や椿海干拓地への給水を目的としたもので,東庄(とうのしよう)町で取り入れる。この地域における利水事業は,利根川と利水地域との間には比高の高い下総台地があるため,いずれもポンプアップして台地に送り,その後台地を横断して低地に供給している。
以上,3地域についての利水事業をみると,それぞれの地域の地形に対応した取水方式がとられていることがわかる。さらに中流以下の利水は,末端が首都圏近くにあるため,農業用水から工業用水や飲料水など都市型用水に変化しつつある。
執筆者:中山 正民
利根川流域の河川水運は,《万葉集》に埼玉の津にいる船がみえ,文永年間(1264-75)には下総神崎(こうざき)で伊豆走湯山灯油料船が争論をおこし,北条氏照判物には佐倉から関宿,葛西から栗橋への川船通行がみられるなど,古代から戦国期まで断片的な史料でその存在が知られる。近世に入ると,1592年(文禄1)に武州忍(おし)から下総上代(かじろ)に移封になった松平家忠は,忍新郷より川船で〈矢はぎ〉〈かないと〉を経て小見川に着船し,上代に至っている。また家忠は,小見川より江戸へ何回も兵粮舟を出しているので,このころでも利根川・渡良瀬川筋と常陸川筋は,湿地帯内の細流などによってわずかに連絡していたものと思われる。
しかしこの後の,利根川東遷を中心とする幕府の河川改流工事の完成を契機に,関東の河川水運は急速な発展をみる。利根川の本流をはじめ,これに接続する支流・湖沼の沿岸には多数の河岸(かし)が成立し,1690年(元禄3)に幕府がこれらの河岸から江戸への廻米運賃などを定めた改帳には,80余の河岸が記されている。そして利根川本流は前橋まで,烏川は上州倉賀野まで,鏑(かぶら)川は上州下仁田まで,渡良瀬川は野州猿田まで,思川,巴波(うずま)川は野州栃木,壬生まで,鬼怒川は野州阿久津まで川船が遡行し,下流は銚子河口や那珂湊を通して東廻海運に接続し,東北地方の諸物資が下利根川,江戸川を通って江戸に送られた。この川船は,高瀬船,艜(ひらた)船,上流では船下(はしけ)船,小鵜飼船などと呼ばれる大小の川船で,沿岸の農村から年貢米をはじめ商米,雑穀,蔬菜,薪,材木などを江戸へ送り,江戸からはおもに塩,砂糖,日用雑貨などを積み上った。このような水運の発達は,沿岸地域の産業にも刺激を与え,銚子,水海道(みつかいどう),野田などのしょうゆ醸造業,流山のみりん醸造業なども勃興し,原料や製品はこの水運によって送られた。
また利根川水運は物資輸送ばかりでなく旅人も運び,目に見えない文化も運んだ。1687年(貞享4)に松尾芭蕉が利根川の川船を利用して鹿島を訪れたのをはじめ,十返舎一九,小林一茶,高田与清,平田篤胤,渡辺崋山など多くの文人墨客が江戸から訪れて沿岸地域に種々の影響を与え,下総国学の形成や,宮負(みやおい)定雄,佐原の伊能忠敬,楫取魚彦(なひこ),久保木清淵,布川(ふかわ)の赤松宗旦(《利根川図志》の著者)など多くの思想家,学者を輩出した。
明治期に入ると,中利根川と江戸川中流を結ぶ〈利根運河〉が開通し,東京両国と古河,銚子間などに蒸気船が就航するなど,一時は大変な活況を呈するが,鉄道の発達と普及によって,徐々に輸送荷物が減少して衰退し,特に明治30年代からの河川改修工事方針の変化は,河川を水運に適さぬものとし,利根川水運も大きな打撃を受けた。しかし,利根川下流地域や霞ヶ浦などでは,鉄道と結んでなお水運が重要な役割を担っていたが,昭和30年代からの大型トラック輸送の発達により,最終的に消滅した。
執筆者:川名 登
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群馬県と新潟県の境、三国(みくに)山脈中の大水上(おおみなかみ)山の東小沢に水源を発し、関東平野をほぼ南東流して千葉県銚子(ちょうし)で太平洋に注ぐ大河川。一級河川。延長322キロメートルで長さでは信濃(しなの)川に次いで全国2位、流域面積は1万6840平方キロメートルで日本最大である。坂東太郎(ばんどうたろう)の別称がある。
[山村順次]
上流地域は花崗(かこう)岩が広く分布し、これを侵食して深い谷が続いており、ダムが集中する。大穴(おおあな)で湯檜曽(ゆびそ)川と合流して水上温泉郷の渓谷をなし、さらに赤谷(あかや)川と合流して沼田盆地をつくる。沼田盆地には大規模な数段の河岸段丘が形成され、沼田の市街をのせている。その下流の渋川では吾妻(あがつま)川を流入させて関東平野に出て、高崎付近で、関東山地から流れ出た烏川(からすがわ)、鏑川(かぶらがわ)、神流川(かんながわ)を集めて乱流し、扇状地的平野を形成。中流地域では南流する渡良瀬川(わたらせがわ)、鬼怒川(きぬがわ)、小貝川(こかいがわ)とをあわせて、以後、手賀沼(てがぬま)、印旛沼(いんばぬま)や佐原(さわら)、潮来(いたこ)の水郷の低湿地帯をゆっくりと東流、銚子で幅約1キロメートルの河口に至る。
下流地域は古代には香取海(かとりうみ)という広い湾入になっており、利根川は東京湾へ注いでいたが、近世になって銚子で太平洋に注ぐ流路に変えられ、その流入土砂によって今日みるような低湿地と湖沼群が形成されたのである。かつての東京湾に注ぐ流路は古(ふる)利根川となり、さらに千葉県関宿(せきやど)(野田市)で江戸川を分流させることにもなった。江戸幕府が行った瀬替えの目的は、江戸市街を水害から守るため、食糧確保のために中川流域の新田(しんでん)開発を進めること、また東北諸藩に対する江戸防御線とすることにもあったといわれる。利根川を埼玉県羽生(はにゅう)市川俣(かわまた)で締め切り、渡良瀬川の改修、瀬替えを行う一方、鬼怒川、小貝川の分離、改修によって利根川の東流を図った。しかし、1594年(文禄3)に始まった工事は二度の人工流路開削を経て1654年(承応3)にいちおうの完成をみたが、利根川の水を鬼怒川水系へ流す連絡水路である赤堀川の川幅が狭く、1809年(文化6)になって川幅を4倍の95メートルに広げるまでは十分な効果をあげられなかった。また茨城県古河(こが)付近では、利根川との合流によって渡良瀬川の逆流がおこって洪水を受けやすくなった。そこで、渡良瀬川合流付近から香取(かとり)市へかけて水塚(みつか)を構え、揚舟(あげぶね)を常備している民家が多くみられた。1900年(明治33)、利根川は直轄河川として高水防御の治水工事が展開されることになり、第一期工事として佐原から笹川(ささがわ)まで直流水路の掘削と築堤が行われ、また明治末から大正期にかけて渡良瀬遊水地(渡良瀬遊水池とも)の工事が行われ洪水調節に役だってきた。
[山村順次]
近世期に利根川が東遷されて銚子で太平洋に注ぐようになると、東北の物資が利根川をさかのぼって関宿に至り、ここから江戸川を経由して江戸へ運ばれるようになった。従来の外房(そとぼう)沖を航海するいわゆる外海廻(まわ)りは危険が伴ったため、内廻りとよばれた利根川水運は盛況を呈し、沿岸には多くの河岸(かし)が発達した。下流から銚子、笹川、小見川(おみがわ)、佐原、神崎(こうざき)、滑川(なめがわ)、安食(あじき)、木下(きおろし)、布佐(ふさ)、関宿などの河港があり、江戸川に入って野田、流山(ながれやま)、松戸、行徳(ぎょうとく)などがにぎわった。河岸には船問屋、船宿、料理店などが建ち並んでおり、香取市の小野川沿いにある国指定史跡伊能忠敬(いのうただたか)旧宅も商家の一つであった。木下河岸は銚子から高瀬舟で運ばれた物資を陸揚げし、ここから陸路で白井(しろい)、鎌ヶ谷(かまがや)、行徳へと輸送する中継ぎ基地でもあり、また1678年(延宝6)木下河岸の問屋が茶船の営業を開始して以後、香取、鹿島(かしま)、息栖(いきす)の三社参りの茶船が出入りするようになり、遊覧客の来訪も盛んになった。18世紀末における木下の高瀬舟出船数は年間4000隻にも達した。物資は江戸中期までは城米や蔵米の輸送が主であり、後期になると新たに九十九里の干鰯(ほしか)、銚子の海産物、佐原の酒、銚子・野田のしょうゆなどの江戸送りが多くなった。関宿には幕府の関所が置かれ宿場町としても栄えた。1874年(明治7)に蒸気船が走るようになり、銚子―東京間を18時間で結び、高瀬舟で2週間もかかっていた時代とは比較にならないほどに短縮され、川筋に並行して走る成田線が1933年(昭和8)開通するまで利根川水運は活況を呈した。1886年、政府は茨城県側の要請で、利根川と江戸川を結ぶ大回りのコースを関宿で短縮し、また冬の渇水期に対応するために利根運河の開削に着手し、1890年に完成した。このため所要時間は6時間短縮され、運河を往来する船の数は年間3万8000隻にも上ったが、大正時代になると鉄道との競合で急速に衰退した。
[山村順次]
上流地域は1951年(昭和26)に国土総合開発法に基づき利根特定地域に指定され、豊富な水を利用して多目的ダムが建設された。利根川本流の矢木沢ダム(やぎさわだむ)、藤原(ふじわら)ダム、須田貝(すだがい)ダムや支流の赤谷川の相俣(あいまた)ダム、片品(かたしな)川の薗原(そのはら)ダムなどはその例で、発電、洪水調節、灌漑(かんがい)用水、上水道などに利用されている。1970年には水資源開発公団(現、水資源機構)によって、赤城山南麓(なんろく)や榛名(はるな)山東麓に矢木沢ダムの放水を取水して安定した水田経営を図る群馬用水が完成した。中流地域では1968年埼玉県行田(ぎょうだ)市北部に利根大堰(おおぜき)ができ、東京都、埼玉県の上水道や工業用水に使用されたり、荒川の水質浄化に役だっている。下流地域では、笹川と佐原に取水口を設けて九十九里平野の水田へ農業用水を送る大利根用水と、両総用水(りょうそうようすい)がそれぞれ1951年と1965年に完成し、干害に苦しんできた農業の発展に、多大の貢献をしている。しかし、農業用水の水量不足や首都圏での上水道、工業用水の需要増大に対応するため、さらに塩水の逆流で悪影響の出ている水田を改良するために、1971年に河口から18キロメートルの東庄(とうのしょう)町に利根川河口堰が設けられた。かつて沿岸地域で多くの水害を引き起こしてきた利根川も、現在では上流地域は上信越高原国立公園(じょうしんえつこうげんこくりつこうえん)、下流地域は水郷筑波国定公園(すいごうつくばこくていこうえん)に指定され、上流部での渓谷美、温泉、中・下流部での川釣り、舟遊び、河川敷のゴルフ場、運動公園でのレクリエーションや堤防に沿ってのサイクリングなどに利用されている。
[山村順次]
『九学会連合利根川流域調査委員会編『利根川――自然・文化・社会』(1971・弘文堂)』▽『本間清利著『利根川』(1978・埼玉新聞社)』▽『大熊孝著『利根川治水の変遷と水害』(1981・東京大学出版会)』▽『川名登著『河川水運の文化史――江戸文化と利根川文化圏』(1993・雄山閣出版)』▽『森田保編『利根川事典』(1994・新人物往来社)』▽『利根川研究会編『利根川の洪水――語り継ぐ流域の歴史』(1995・山海堂)』▽『利根川文化研究会編『利根川・荒川流域の生活と文化』(1995・国書刊行会)』▽『金井忠夫著『利根川の歴史――源流から河口まで』(1997・日本図書刊行会、近代文芸社発売)』▽『山本鉱太郎著『新・利根川図志』上下(1997、1998・崙書房出版)』▽『北野進・是永定美編『利根川――人と技術文化』(1999・雄山閣出版)』▽『宮村忠監修、アーカイブス利根川編集委員会編『アーカイブス利根川』(2001・信山社出版、大学図書発売)』▽『渡辺英夫著『近代利根川水運史の研究』(2002・吉川弘文館)』▽『新井幸人著『緑の水脈――群馬・利根川流域の美しい自然』(2004・小学館)』▽『利根川文化研究会編『利根川荒川事典』(2004・国書刊行会)』▽『赤松宗旦・柳田国男著『利根川図志』(岩波文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…千葉県関宿町で利根川から分流して東京湾に注ぐ川。西岸は東京都と埼玉県,東岸は千葉県である。…
…北東端も阿武隈高地の南麓まで北に入り込んだ形で平野が続く。 水系は平野の中央を北西から南東に貫流する利根川が最大の流域を占める。利根川は上流部で関東山地北部および三国山脈から流出する諸川を集め,中流部で渡良瀬川,鬼怒川が合流し,沿岸に沖積地を広げながら銚子半島で海に注ぐ。…
…江戸幕府の職制。1725年(享保10)に新設された勘定奉行配下の役職で,江戸川,鬼怒川,小貝川,下利根川の4川の治水事業を担当した。28年には職掌地域が関東一帯に拡大された。…
…利根川の旧流路。近世以前の利根川の流路の下流部にあたり東京湾に注ぐ。…
…そして1108年(天仁1)の浅間山大爆発は,上野ばかりでなく武蔵国北部一帯に大きな被害をもたらした。最近の研究によれば,この爆発は江戸時代の天明の噴火の規模をはるかに超え,浅間山と霞ヶ浦を結ぶ線を長軸としたレンズ状の地域に分厚い降灰をもたらし,これにともなう河川のはんらんとともに,利根川・荒川流域の水田はとくに深刻な影響をうけたと考えられる。この地方は12世紀になると,野与(のよ),猪俣,児玉,丹(たん),私市(きさい)などの諸党に属する多くの小武士が簇生(そうせい)し,その後の行政区画にも10世紀の《和名抄》段階との間に顕著な差異が認められる。…
※「利根川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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