惟政 いせい
1543-1610 朝鮮王朝の僧。
中宗37年生まれ。壬辰倭乱(じんしんわらん)(文禄(ぶんろく)の役)に際し,師の休静(きゅうじょう)が編制した義僧軍にくわわり,日本軍とたたかう。1604年(慶長9)孫文彧(ぶんいく)とともに講和使節として来日し,伏見城で徳川家康・秀忠とあい,国交の修復と捕虜3000人余の送還を交渉した。光海君3年死去。68歳。字(あざな)は離幻。号は泗溟(しめい),松雲。俗姓は任。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の惟政の言及
【休静】より
…壬辰・丁酉倭乱([文禄・慶長の役])に際し,門徒1500人を召集して義僧軍を編制,全国に檄を発した。八道十六宗都総摂に任ぜられ,弟子の惟政(泗溟堂)らと各地の義僧軍5000人を率いて日本軍と戦った。義僧軍は平壌,開城の奪回をはじめ,武器の製造や山城の築造などでも活躍した。…
※「惟政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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