ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンリ4世」の意味・わかりやすい解説
アンリ4世
アンリよんせい
Henri IV
[没]1610.5.14. パリ
ナバール (ナバラ) 王 (在位 1562~1610) ,フランス王 (在位 1589~1610) 。ブルボン朝(→ブルボン家)の創始者。アントアーヌ・ド・ブルボンとジャンヌ・ダルブレ(→アルブレ家)との間に生まれ,ベアルンの山村的風土で育った。プロテスタントの指導者としてユグノー戦争で戦った。1572年シャルル9世の妹マルグリット・ド・バロアと結婚,その直後にサン=バルテルミの虐殺が起こった。カトリック教徒は,最初,プロテスタントの総帥であった王を承認しなかったが(→三アンリの戦い),忍耐力と精力的な行動に支えられて王国全土の統一に成功した。1589年アンリ3世と同盟を結んでパリを包囲したが,8月1日アンリ3世はドミニコ会修道士ジャック・クレマンに刺されて翌日死去した。アンリ3世には子がなく,弟のアランソン公の死 (1584.6.) 後,ナバール王を正式の王位継承者として承認していた。しかしその後,カトリック同盟を支持してきたスペインの介入が露骨になり,スペイン軍の到着によって,パリの攻囲を中止せざるをえなくなった。これと並行して,スペイン王はパリの十六人委員会とマイエンヌ公がパリに招集したカトリック同盟派のみの三部会とを通じて,スペイン王女をフランス王位への候補者として承諾させようと企てた。アンリ4世は,このような事態を前にしてカトリックへの改宗を決心し (1593.7.) ,1594年パリに入城,1598年4月ナントの勅令に署名,5月スペインとベルバン条約を締結した。国王の権威が徐々にではあるが地方で回復されるにつれ,40年間の内乱で荒廃した国土の再建をはかるために,シュリ公の協力を得て財政改革を行ない,オリビエ・ド・セールの助言に基づき農業振興政策を打ち出した。また大フランスの確立を願い,ドイツのプロテスタントの協力を得てオーストリアのハプスブルク家の力を弱めることを企図したが,1610年5月14日狂信的なカトリック教徒フランソア・ラバイヤックによって暗殺されたため,フランスは新たな困難の時代に突入することになった。妻のマルグリット・ド・バロアと離婚したのち,再婚したマリ・ド・メディシスは,夫の暗殺後に即位した息子ルイ13世の摂政として活躍した。
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