室町後期の画家。狩野正信の長男。幼名は四郎二郎。大炊助(おおいのすけ),越前守また法眼となる。初期には父の正信と同様に,《細川澄元像》(1507),《鞍馬蓋寺縁起絵巻》(1513)など幕府関係,とくに幕府の実権者であった管領細川氏の下で働いている。その後,幕府の弱体化によって活躍の場を他に求めるようになり,1543年(天文12)に内裏の小御所,46年に記録所の障子絵を描くなど宮廷や公家に出入りする一方,1539年から十数年間にわたる石山本願寺での制作や上層町衆を対象とする絵馬・扇面画など各階層に広がっていく。時勢に応じて時の権力者をパトロンとし,需要のあるところに素早く対応することによって自派を発展させていった。この自由さは,幕府や寺社などの組織にしばられない専門画家になることで生まれたものであり,正信以来の法華宗徒でありながら,当時対立関係にあった浄土真宗の本願寺の仕事をしたことによく表れている。また元信は数人の弟子とともに工房を組織することで大量の注文に応じていった。障壁画の場合は工房による共同制作が有効なものであって,石山本願寺の記録には子の松栄をはじめとする数人の名が見いだせ,大徳寺大仙院や妙心寺霊雲院の障壁画は,元信以外に弟の之信など数人が参加していると考えられている。中国画を手本として描いた筆様というそれまでの方法に対して,狩野派独自のスタイルである真・行・草の画体を作り上げたことも重要で,これによって大量の障壁画に共同してあたれるようになった。題材は山水,人物,花鳥のすべてにわたり,正信の手がけなかった絵巻物も描いている。現存作品では,大徳寺大仙院(1513)と妙心寺霊雲院(1543)の障壁画が元信を中心とした狩野派によって描かれたもので,その中でも前者の《禅宗祖師図》と《四季花鳥図》,後者の《月夜山水図》と《四季花鳥図》が元信筆と考えられている。大仙院の花鳥図は真体著色の技法であり,霊雲院画は行体淡彩,それに白鶴美術館の《四季花鳥図屛風》の金地著色を加えた3種の技法が以後の花鳥画の基本となった。その画風は,《本朝画史》に〈漢にして倭を兼ねる〉とあるとおり,漢画の線描によって対象を明確に描写し,鮮やかな色彩を加えることによって平明で装飾的な画面を生んだ。工房組織によって流派としての発展を可能にしたので,狩野派の基礎の確立者といわれ,彼の様式は後世〈古法眼(こほうげん)〉と俗称されて,神格化された。
執筆者:斉藤 昌利
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室町後期の画家。狩野派の始祖狩野正信の長男とも次男ともいわれ、初め四郎二郎、のちに大炊助(おおいのすけ)、越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられ、永仙と号した。その後の狩野派発展の基礎を確立した人物である。法眼(ほうげん)にも叙せられたことより、江戸時代の画史・画伝類では、敬愛を込めて「古法眼」とよばれた。1513年(永正10)『鞍馬寺(くらまでら)縁起絵巻』を細川高国の命により描き、またこのころ大徳寺大仙院客殿襖絵(ふすまえ)を制作。その水墨を基調に要所要所に濃彩を施した障壁画(しょうへきが)は、明快で平明な画調を示し、きたるべき桃山期障屏画(しょうへいが)の先駆をなすもので、この作品によってまさしく近世絵画への幕が切って落とされたといえよう。そうした元信の画業は、43年(天文12)の妙心寺霊雲院方丈襖絵に典型的に示されている。
また元信は、幕府をはじめ宮廷、公武、町衆など各層からの幅広い需要に応じるべく、多数の門人を率いて障屏画から絵馬(えま)、扇面画に至るまで精力的に制作した。1535年内裏(だいり)に水墨の屏風(びょうぶ)を納め、その6年後には大内義隆(よしたか)より明(みん)に贈る金屏風、金扇の注文も受けた。また39~53年には弟子とともに石山本願寺の障壁画制作を担当、単に禅宗寺院や自らも信奉した日蓮(にちれん)宗の寺院からの注文に応ずるだけでなく、職業画人として他宗派からの需要にも積極的にこたえたことが知れる。こうした点にも、元信の近世的性格がうかがわれる。技法的には、中国伝来の水墨画の画法に在来の土佐派の技法を折衷、新時代の感性に適合した明快な絵画様式を創造した。代表作に、前述の大仙院と霊雲院襖絵のほか、『瀟湘(しょうしょう)八景図』(妙心寺東海庵(あん))、『四季花鳥図屏風』、『清凉寺縁起絵巻』(京都嵯峨(さが)・清凉寺)がある。
[榊原 悟]
『山岡泰造著『日本美術絵画全集7 狩野正信・元信』(1981・集英社)』
(山下裕二)
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1476.8.9~1559.10.6
戦国期の画家。正信の長男。初名四郎二郎。山城国生れ。大炊助(おおいのすけ)を称し,越前守・法眼(ほうげん)となる。狩野派発展の基礎を確立し,後世,古法眼と仰がれた。父正信が得た幕府の御用絵師の立場を保持する一方,宮廷や公家・寺社・町衆にも支持層を広げ,多くの門弟を擁する工房を組織して需要に応じた。1539年(天文8)から53年には石山本願寺の障壁画を制作。漢画の諸様式を広く学んで整理統合し,また大和絵の技法をもとりいれ,和漢融合による明解で装飾性豊かな障壁画様式を創始した。代表作は大徳寺大仙院客殿襖絵(ふすまえ),妙心寺霊雲院旧方丈襖絵,「清凉寺縁起絵巻」など。
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…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…
…
[和漢の統合]
再び京都の画壇に目を移せば,相阿弥は,将軍家のコレクションにある牧谿の作風の深い理解のなかから大仙院襖絵(1513ころ)の山水画にみるような,墨の微妙な階調と余白を生かした詩情豊かな山水画風をつくり出している。狩野正信の子狩野元信もまた,将軍家の御用絵師の立場を利用して宋・元・明の絵画を幅広く学び取り,真(馬遠様),行(牧谿様),草(玉澗様)の三体にわたる装飾的秩序をそなえた明解な画風を完成させた。大仙院《花鳥図襖絵》は,真体の,霊雲院《花鳥図襖絵》(1543ころ)は行体の,それぞれ代表的な作例である。…
※「狩野元信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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