朝鮮王朝(読み)ちょうせんおうちょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝鮮王朝」の意味・わかりやすい解説

朝鮮王朝
ちょうせんおうちょう

朝鮮,太祖(→李成桂)の建国(1392)から日韓併合(1910)まで続いた封建王朝。別称「李朝」は古朝鮮の箕子朝鮮(→箕子東来説),衛氏朝鮮に対し,朝鮮王朝を李氏朝鮮と俗称したものをさらに略称した俗称である。朝鮮半島では 15世紀にいたって農業・商業・手工業が発展,中央集権体制も確立した。この時期を過ぎると封建体制の内部矛盾が現れ,16世紀後半から 19世紀まで党争が激しく展開された。朝鮮王朝は指導原理を儒教に求め(→朝鮮の儒教),明には「事大」,日本その他の国には「交隣」の外交政策をとった。その間,日本の侵略(1592~98。→文禄・慶長の役),満州族の侵略(1627。→丁卯胡乱,1636~37)を受け,国土は荒廃し,農業生産は低下した。18世紀頃から商品貨幣経済の発展とともに資本主義経済が芽生え,封建体制はゆるみはじめた。19世紀になると諸制度は乱れ,天災,悪疫,飢饉流亡などが相次ぐなかで,農民反乱が頻発した。一方,欧米列国の開国要求も強く,高宗13(1876)年には日本の強圧により開国。開国後の半植民地状況下に,軍人によるクーデター,反封建反侵略のスローガンのもとに農民戦争が起こった(→京城事変甲午農民戦争)。建陽2(1897)年国号大韓帝国と改め,近代国家体制建設に努めたが,日清戦争,日露戦争に勝利を得た日本に光武9(1905)年保護条約(→日韓協約)を強要され,隆煕4(1910)年8月日本に併合された。この時代の歴代王族の墓である朝鮮王陵は,首都であった漢城(→ソウル特別市)を中心とした大韓民国(韓国)国内 18ヵ所に点在する。儒教や風水(→陰陽地理説)をもとに設計された景観をもつ 40基におよぶ墓全体が,2009年世界遺産の文化遺産に登録された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「朝鮮王朝」の解説

朝鮮王朝(ちょうせんおうちょう)

1392~1910

朝鮮最後の王朝。1392年李成桂(りせいけい)(太祖)が高麗(こうらい)に代わって建国,翌年国号を朝鮮と称した。都は漢城(現ソウル)。明ついで清を宗主国とし,日本と修好を持った。15世紀が全盛期で,ことに名君世宗のとき文物制度が整い,領土も豆満江(とまんこう),鴨緑江(おうりょくこう)の線を確保した。高麗の仏教に代わって儒学(朱子学)が文教の原理となり,儒教の礼法は家族制度,階級制度を規律した。しかし儒教主義の徹底は,16世紀以後特権身分の世襲官僚(両班(ヤンバン))の間に党争を引き起こし,政治の混乱が始まった。そのうえ1592~98年,日本の侵入を受けて国土は疲弊し,ついで後金(清)が侵寇して1637年その属国となった。この間党争はさらに激化し,国勢は衰微をたどった。18世紀には実学(実用の学)が起こり,また洋学,キリスト教が中国から伝えられた。19世紀後半以後は列強の圧力が加わり,日本と日朝修好条規(1876年)を結んで開港した。その後,日本,清,ロシアの勢力が錯綜するうちに,国号を大韓帝国と改め(97年),日露戦争をへて日本の支配が決定的となり,1910年日本に併合された(韓国併合)。朝鮮王朝500年間は朝鮮全土が一民族単位となった時期で,学術思想,美術工芸などに朝鮮文化の定着と自主性がみられる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の朝鮮王朝の言及

【李朝】より

…1392年に高麗を滅ぼして成立し,1910年まで続いた朝鮮の王朝。李氏朝鮮の略称で,朝鮮王朝ともいう。李朝が成立した時期は,ちょうど日本では南北朝の動乱が終わって室町幕府が確立した時期であり,中国でも約20年前に元が滅びて明が成立している。…

※「朝鮮王朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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