阿波国撫養(むや)塩田(鳴門市)で生産される塩をいう。1599-1607年(慶長4-12)の間に,斎田を中心とする撫養沿岸では,徳島藩によって次々と入浜塩田が開発された。その後も開発が進み,1644年(正保1)にはいわゆる斎田塩方12ヵ村が成立する。江戸へ瀬戸内産塩(下り塩)が流入しはじめるのは元和(1615-24)ころで,当時は阿波斎田塩,播州荒井塩,同赤穂塩が主であった。18世紀末の撫養塩田の面積は297町余,生産高132万俵余(2斗5升入り)で,大部分が江戸売りである。幕末ころの江戸売りは100万~120万俵に達している。天保(1830-44)ころから讃岐坂出,備前野崎浜等,新浜の産塩が江戸に進出するようになったので,それらと区別するため斎田塩を本斎田塩(本斎(ほんさい)),新たに入津するようになった塩を新斎田塩(新斎(しんさい))と呼ぶようになった。なお,阿波徳島付近の産塩は徳斎,答島方面産のものは南斎と呼ばれた。
執筆者:渡辺 則文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…開府当初の江戸の塩需要は下総行徳,武蔵大師河原など江戸湾岸で産出される地塩(地廻り塩)に依存していたが,江戸の発展は地塩だけではとうてい需要を満たしえず,瀬戸内十州塩に依存せざるをえなくなった。瀬戸内塩は元和(1615‐24)ころから江戸に流入しはじめるが,初めは阿波斎田塩,播州荒井塩,同赤穂塩が中心であった。武州川越の商人,榎本弥左衛門の覚書《万之覚》によると1652年(承応1)11月28日から12月5日までに江戸に入津した塩船は230艘で,そのうち100艘が荒井船であったといい,また当時,1年間に江戸に入津する塩船は250~300艘で,積荷は約50万俵であった。…
…その後,播州,淡路あるいは当国内からの移住者の手によって塩田の開発がすすみ,1644年(正保1)までに立岩,弁財天,北浜,南浜,斎田,大桑島,小桑島,黒崎,三ッ石,高島,明神,小島田の,いわゆる撫養12ヵ村(塩方12ヵ村)の塩村が成立した。そして,これら12ヵ村で生産される塩は,すべて斎田塩(さいだじお)と称された。のち,同塩の名声が高まとともに,各地に同名を称するものができたので,それと区別するため本斎田塩とも称した。…
※「斎田塩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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