精選版 日本国語大辞典 「塩田」の意味・読み・例文・類語
えん‐でん【塩田】
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食塩を生産する工程において,砂を媒体として海水を濃縮する土地と設備を塩田という。外国では岩塩を産出し,あるいは海塩を生産するとしても蒸発条件がよく,天日を利用して簡単に生産しうるが,日本は岩塩も産出せず,蒸発条件もよくないから,1971年ごろまでは必要食塩のすべてを塩田によって生産した。
古来からの製塩法を分類すると図のようになるが,このうち(6)~(13)が塩田である。ただし(17)も通常流下式塩田という。塩田は基本的には揚浜系と入浜系に分けられる。揚浜とは満潮位より高位の地盤に海水をくみ揚げて操作する様式,入浜とは干満中間位に地盤を造成し,満潮を塩田内の海水プールに引き入れて操作する様式のものである。
(1)自然浜 日本海・太平洋岸に行われ,天然の砂浜に撒潮し,鹹(かん)砂(乾燥して塩分結晶の付着した砂)ができると,ザルまたはガワ(おけのような容器)を運び,鹹砂を入れ海水で溶出して鹹水(濃厚海水)を得る型。(2)古式汲潮浜 鹿児島湾岸などでみられた。満潮位より上部に,土砂によって地盤と溶出装置を造成したもの。3.3m2当り18l以上の撒潮が必要であり,干潮時は遠距離の運搬が苦労であった。(3)汲潮浜 瀬戸内の半島部や島嶼部に散在した。干潟浜の満潮汀線に土留堤を造り,満潮時に堤の上から海水を汲みあげることができる型。冠水式であっただろうから,入浜系から発達したものとも考えられる。(4)塗浜 能登を中心に分布した。岩石浜であるが周辺に燃料が豊富であるという条件で成立したもので,0.3~0.5mほど石垣を積み,内側を土砂・塵芥で埋め,その上部を真土(まつち)と砂を混じて固め,さらに山粘土を張り,突き固めて不透水地盤とし,この上に撒砂を撒布する。こういう形態であるため〈置浜〉ともいわれる。これは海水にむだがなく比較的効率がよかった。以上の揚浜系塩田は,自家労働しかも兼業で行われたため,1経営面積は330~990m2であった。
(1)古式入浜 太平洋岸の湾内や水道の入江などに存在した。基本的な構造は(3)の入浜塩田と同じであるが,自然条件やその地域の後進性,兼業と家族労働によるため,生産・経営が合理化されていないものをいう。(2)塗浜的入浜 小豆島の一部にみられた。入浜塩田の地盤の砂粒が大きすぎて,海水の浸透上昇が多すぎるため,その表面を粘土張りにしたもの。したがって塗浜のように撒潮作業が必要であった。(3)入浜塩田 瀬戸内と北九州に分布した。デルタまたは入江に大規模な防潮堤を構築し,その内部に造成した。地盤面は海潮干満の中間位にあり,1経営単位(一軒前・一塩戸前)は1~2ha,これを幅15mの短冊形に浜溝をもって仕切り,浜溝には,防潮堤に伏設された樋から満潮を導入しておく。溝の海水は盤下に浸透し毛管現象によって盤上の撒砂に上昇する。これを促すため呼水としてひしゃくで撒潮する場合もある。上昇した海水は風と日光によって蒸発するが,さらにこれを盛んにするために何回か竹万鍬(たけまんが)でかきさがす(爬砂)。撒砂粒に塩の微細結晶が付着して鹹砂ができると,99m2に1台の割で設けた溶出装置(沼井(ぬい))に運び入れ,前採鹹時の2番水と海水をくみ入れ,砂の塩分を溶解させ,受壺(下穴)に流出させる。これによって約3°Bé(ボーメ度)の海水が約17°Béの鹹水となる。鹹水は粘土槽に蓄えておき適宜塩釜ないし真空式蒸発鑵によって食塩に仕上げられる。労働は賃傭労働者を一軒前に約10名雇用した。(4)流下盤・枝条架法 〈流下式塩田〉とは,長さ15~20m,約1/100勾配の地盤をカオリン系良質粘土をもって造成し,表面に細石を敷き,1日1ha当り70~150klの割合で海水を流下させ,その過程で,海水を約6°Béに濃縮する。枝条架とは5~7mの高さに丸太を組み,これにモウソウチクの細枝を両翼を張るようにして5~6段組み合わせて,上端から濃縮した海水を滴下させ,立体的に蒸発させる装置である。枝条架を含めて4~5haを1作業単位とし,これに幅8~10m,長さ合計300~400m,高さ5~7mの枝条架が組み合わされた。海水・鹹水の移動は電動ポンプによる。これによって地力と砂を操作する農業的採鹹は海水を操作・管理する工業的採鹹に変質したのである。
揚浜系の作業は,撒砂-揚水・撒潮-爬砂・乾燥-集砂-溶出-鹹水運搬,入浜系では,撒砂-(塗浜的入浜では撒潮)-圧砂-爬砂・乾燥-集砂-溶出-鹹水輸送となって,入浜では揚水・撒潮と鹹水運搬の重労働を省くことができたが,圧砂すなわち夕方に板を敷き撒砂を地盤に軽く密着させ,夜間にも毛管現象がとぎれないようにする作業があった。入浜塩田では鹹水を竹管または土樋によって流送した。また入浜塩田では一度で全地盤の鹹砂を集める(丸持)方式のほかに,塩付をよくするため1/2面を交互に2日ずつさらす(替持),1/3面を順番に3日ずつさらす(三ッ一)方式があった。
乾燥した海藻を集めて,海水を入れた容器でこれをすすぎ,塩分を溶解させて鹹水を得る方法から,乾燥した砂を集めて同様に採鹹する方法(塩尻法)に移るのが3~7世紀と推定され,7~8世紀には同一地盤でこれをくり返す塩田法に進歩したと思われるが,11世紀にはすでに汲潮浜が成立していた。入浜系では13世紀中ごろに簡単な防潮堤ができ,干満時間に関係なく作業を行えるようになり,17世紀初頭に東播磨で入浜塩田が成立し,これが近世を通じて瀬戸内一帯に約4000haも干拓され,全国産額の80%以上を生産し,漸次他様式の製塩を衰退させていった。入浜塩田,汲潮浜,塗浜は1955年まで残ったが,人件費の高騰,外塩の圧迫,食塩の供給不足という事態に対応して,流下盤・枝条架法に移行した。しかしこれもコスト中の地代部分を削除するため72年にはイオン交換法に全面転換し,塩田はまったく消滅した。
→塩
執筆者:広山 尭道
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塩釜で煮つめるためにあらかじめ濃縮された海水(鹹水(かんすい))をえる浜。古くは塩浜とよばれ,奈良時代にその存在が確認される。塩浜のなかでは,自然浜を用いたものが最も古く,中世にはこれと並んで揚浜が主流を占めていたとされる。前者は満潮時に塩分の付着した浜砂を干潮時に集める方式,後者は人力によって海水を撒布したのち,乾燥させた砂を集める方式で,どちらもそのあと海水を注いで濃い塩水を溶出する。近世に入ると,瀬戸内海地域に堤防と海水を導き入れる浜溝とを備えた入浜が出現し,全国塩業の中心となった。入浜式塩田は,第2次大戦後,流下式塩田への切換えによって消滅。さらにイオン交換膜法が開発され,塩田そのものが姿を消した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…古代には狭義の高知平野の大部分は海で,その中に中生層からなる地塁が島をいくつか形成していたことが,紀貫之の《土佐日記》からわかる。ここに戦国末期から藩政期にかけて,塩田(しおた)と呼ばれる干拓新田が開発され,現在みられる高知平野となった。広義の範囲に含まれる香長平野は高燥で,その中の長岡台地は野中兼山の建設になる山田堰や用水路によって灌漑され,初めて水田化されたが,浦戸湾岸の狭義の高知平野はこれと対照的に低湿である。…
…17世紀初頭の古地図と慶長検地帳によると,赤穂湾岸一帯に約100haの古式入浜の存在が確認できる。1625年(寛永2)ころ姫路藩東部に〈入浜塩田〉が出現し,45年(正保2)から赤穂でも造成が始まる。入浜塩田とは平均1.5haを生産・経営の単位とし,これに塩釜1基を合わせて一軒前といい,女,子ども合わせて約10人を前貸制賃労働として雇用した。…
…高度経済成長期以降,多くの資金や労働力を必要とする果樹やイグサの栽培は,より安価な山梨,福島(モモ)や熊本(イグサ)などへと主産地が移動する傾向がある。一方,雨の少ないことに加えて干満の差が2~4mと大きく,干潟ができやすいため,近世には播州赤穂(あこう)をはじめとして入浜式の塩田が発達し,藩の奨励,水運の便のよさもあって日本最大の塩の産地となった。塩田は明治以降も続けられていたが,1970年代に製塩法がイオン交換膜法に転換されて姿を消し,工場用地などとなった。…
… 播磨の産業としてはまず17世紀の塩業の展開があげられる。1600‐04年の間に加古郡高砂・荒井両村に塩田が開発され,つづいて印南郡曾根,大塩,的形から飾東郡木場村にかけて塩田が造られた。古式入浜塩田であったが,やがて寛永ごろ荒井村あたりで入浜塩田が創始された。…
※「塩田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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