改訂新版 世界大百科事典 「撫養塩田」の意味・わかりやすい解説
撫養塩田 (むやえんでん)
近世,現在の徳島県鳴門市につくられた入浜塩田。1585年(天正13)播州竜野から転封,阿波国に入部した蜂須賀家政は,のち播州荒井から製塩技術者を招き,撫養沿岸の干潟地を踏査させ,1599年(慶長4)3月,桑島夷山(えびすやま)の下に塩田を開いたのが撫養塩田のはじまりである。その後,播州,淡路あるいは当国内からの移住者の手によって塩田の開発がすすみ,1644年(正保1)までに立岩,弁財天,北浜,南浜,斎田,大桑島,小桑島,黒崎,三ッ石,高島,明神,小島田の,いわゆる撫養12ヵ村(塩方12ヵ村)の塩村が成立した。そして,これら12ヵ村で生産される塩は,すべて斎田塩(さいだじお)と称された。のち,同塩の名声が高まとともに,各地に同名を称するものができたので,それと区別するため本斎田塩とも称した。なお徳島藩領では,1620年(元和6)名東郡の徳島城下付近,また36年(寛永13)那賀郡答島村に塩田が開かれたが,本斎田塩に対して前者の産塩を徳斎塩,後者の産塩を南斎塩と呼んだ。
江戸には元和ごろから下り塩が流入しはじめるが,その中心は斎田塩であった。1653年(承応2)の武州川越商人の覚書によると,当時斎田近辺には大小竈が300軒ほどあり,年間生産高は50万俵ほどで,250ないし300艘の船で江戸方面に輸送されたという。19世紀のはじめ,徳島藩領の塩田反別は433町8反9畝,生産高は2斗5升俵で177万9698俵,そのうち撫養12ヵ村の塩田反別は297町8反6畝,生産高は132万1694俵で,その大半を占めた。阿波産塩の大部分は江戸積みで,幕末ごろ100万~120万俵にのぼっている。徳島藩では1840年(天保11)以降,江戸において塩専売を試みるが,江戸塩問屋らの抵抗もあって十分成果をおさめることができなかった。1972年第4次塩業整備によって廃止された。
執筆者:渡辺 則文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報