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徳島藩 とくしまはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳島藩
とくしまはん

阿波藩ともいう。江戸時代阿波国 (徳島県) ,淡路国 (兵庫県) を領有した藩。天正 13 (1585) 年に蜂須賀家政が阿波一国 17万 6000石で徳島地方に封じられたのに始る。元和1 (1615) 年の3代至鎮のとき,大坂夏の陣の功により池田氏除封のあとの淡路一国8万 1000石を加増され,25万 7000石となった。

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百科事典マイペディアの解説

徳島藩【とくしまはん】

阿波(あわ)藩とも。阿波国徳島に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1585年蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が入封,以降同氏が在封。阿波国・淡路(あわじ)国で領知高約18万6000石〜25万7000石。
→関連項目阿波国海軍総裁撫養塩田陸軍総裁

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

とくしまはん【徳島藩】

江戸時代阿波(あわ)国名東(みょうどう)郡徳島(現、徳島県徳島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は長久館。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が土佐に退いたあと、1585年(天正(てんしょう)13)に秀吉の家臣蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が18万石で入封(にゅうほう)した。家政は1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いの際、豊臣氏に恩義があったため、どちらに味方するか苦悩し、領地を豊臣秀頼(ひでより)に返納して出家、高野山に入ることで中立の立場をとった。ただ、長男至鎮(よししげ)の妻が徳川家康(とくがわいえやす)の養女であることを理由に、至鎮を東軍に参加させ、戦後に改めて阿波1国を与えられた。さらに15年(元和(げんな)1)の大坂の陣(夏の陣)に参陣した至鎮の戦功により淡路(あわじ)国7万石を加増され、これにより阿波・淡路2国25万石の徳島藩が成立した。蜂須賀氏は1733年(享保(きょうほう)18)に藍(あい)を専売化し、明治維新まで14代にわたって両国を治めた。1871年(明治4)の廃藩置県で徳島県となり、名東(みょうどう)県と改称されたあと、76年に高知県に編入されたが、80年に高知県から分離して徳島県が再置された。淡路国(淡路島)は、70年に起きた庚午(こうご)事変(稲田騒動)を遠因として、76年に名東県から分離して兵庫県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくしまはん【徳島藩】

阿波国(徳島県)名東郡徳島に藩庁を置いた外様大藩。1585年(天正13)蜂須賀家政が豊臣秀吉によって阿波一国(17万6000石)に封ぜられたのに始まる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では家政の子至鎮(よししげ)が東軍に属し,戦後徳川家康からあらためて阿波一国を与えられた。03年板野郡の赤松則房旧領1万石と毛利兵橘旧領1000石を加え,大坂の陣後,15年(元和1)には淡路国7万石余が加増されて,25万7000石の藩領域が確定し,廃藩置県まで持続した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳島藩
とくしまはん

阿波(あわ)(徳島県)と淡路(あわじ)(兵庫県)の両国を領有した藩。外様(とざま)。藩主は蜂須賀(はちすか)氏。戦国末期の阿波は土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)に領有されていたが、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の四国征伐で元親が土佐に退いたあと、蜂須賀家政(いえまさ)が播州龍野(ばんしゅうたつの)から18万石で入封し、関ヶ原の戦いで家政は豊臣秀頼(ひでより)に領国を返上したが、嫡子至鎮(よししげ)は東軍に加わったため戦後改めて阿波国を領有することになった。さらに1615年(元和1)大坂夏の陣の戦功で淡路国7万石が加増され、25万石の徳島藩が確立した。その後は忠英(ただてる)、光隆(みつたか)、綱通(つなみち)、綱矩(つなのり)、宗員(むねかず)、宗英(むねてる)、宗鎮(むねしげ)、至央(よしひろ)、重喜(しげよし)、治昭(はるあき)、斉昌(なりまさ)、斉裕(なりひろ)、茂韶(もちあき)と14代約270年を経て明治維新まで両国に君臨した。
 藩祖家政は入部直後に一宮(いちのみや)城を居城としたが、ただちに吉野川三角州上に徳島城を築造し、翌年に居城を徳島に移した。初代至鎮は淡路加増後の1618年に「御壁書二十三箇条」を制定し、以後の領国経営の祖法となった。そのあと忠英と光隆までは藩主による直仕置(じきしおき)で藩政が運用されたが、4代綱通のときから家老によって領国経営がなされた。1685年(貞享2)のころに徳島城下町が整備を終わり、93町余、町人人口2万5590人と記録されている。吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産品で全国に市場をもち、1804年(文化1)のピーク時には27万6000俵を産出し、藩経済を大きく支えていた。そのほかに良質の撫養(むや)塩と上板(かみいた)地方の阿波和三盆(わさんぼん)糖、上郡(かみごおり)の阿波刻煙草(きざみたばこ)なども知られている。
 11代治昭の1791年(寛政3)、城下に藩校の寺島学問所が設置され、のち長久館と改称し藩士の子弟に文武を学ばせた。また1795年に医師学問所、1865年(慶応1)に洋学校が開校し、庶民の入学も許し優れた医師を輩出する基盤となった。1869年(明治2)版籍奉還を経て71年に徳島県となり、名東(みょうどう)県と改称されたが、76年に高知県に併合され、さらに80年に高知県から分離し徳島県が再置された。[三好昭一郎]

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世界大百科事典内の徳島藩の言及

【アイ(藍)】より

…他方,藍作人は藍作の展開に伴って,逆に商品経済の好餌となり経営が破綻し,貧窮化の様相を強めた。ところで徳島藩では阿波藍の利潤に注目し,1733年(享保18)には〈藍方御用場〉を新設し,葉藍取引税の徴収など葉藍専売制ともいうべき政策に着手した。しかし56年(宝暦6)の〈藍玉一揆〉(五社宮騒動。…

【阿波国】より

… 1841年(天保12)凶作と物価高にあえぐ農民に増徴策をとったことに端を発し,三好郡を中心とし阿波郡にいたるタバコ作地帯で一揆(上郡(かみごおり)騒動)が起こった。62年(文久2)藩主茂韶(もちあき)の上洛を機に徳島藩も幕末の政争にまきこまれていった。家老稲田邦稙,天羽生岐城,小杉榲邨(すぎむら),安芸梅軒などが討幕派として活躍した。…

【蜂須賀氏】より

…江戸時代に阿波・淡路両国25万7000石を所領とした外様大名で,徳島藩主。出自は尾張国守護斯波氏の支流が海部郡蜂須賀(現,美和町)に土着した豪族といわれる。…

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