徳島藩(読み)とくしまはん

改訂新版 世界大百科事典 「徳島藩」の意味・わかりやすい解説

徳島藩 (とくしまはん)

阿波国徳島県)名東郡徳島に藩庁を置いた外様大藩。1585年(天正13)蜂須賀家政豊臣秀吉によって阿波一国(17万6000石)に封ぜられたのに始まる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では家政の子至鎮(よししげ)が東軍に属し,戦後徳川家康からあらためて阿波一国を与えられた。03年板野郡の赤松則房旧領1万石と毛利兵橘旧領1000石を加え,大坂の陣後,15年(元和1)には淡路国7万石余が加増されて,25万7000石の藩領域が確定し,廃藩置県まで持続した。その間,1678年(延宝6)5代藩主綱矩(つなのり)のとき隆重に富田5万石を分与したが,1725年(享保10)3代宗員(むねかず)(正員)が6代藩主として本藩を継ぎ旧に復した。1618年,阿波入部以来の諸法令を集大成して御壁書二十三箇条を制定した。27年(寛永4)に7ヵ条(裏書)を追加し,筆頭家老稲田修理亮の淡路城代任命,老臣益田豊後長行の不正摘発・幽閉(海部(かいふ)騒動),入国以来の家老による支城駐屯制の廃止,国奉行-郡奉行による地方(じかた)支配,裁許制度の制定など寛永年間(1624-44)に藩政機構の整備が図られた。またたび重なる軍役・普請役と財政負担の増すなかで,吉野川流域の作と撫養(むや)塩田や吉野川下流のデルタ地帯での新田開発などにより財源を確保し,57年(明暦3)から59年(万治2)にかけての棟付改(むねつけあらため)を経て藩の支配体制は確立をみた。

 徳島藩は蜂須賀氏の阿波入国時に祖谷山(いややま)など山間部で土豪の一揆があったため,地方知行制がとられ,百姓は知行地付きで,身居(みずわり)と呼ばれる身分設定と壱家(いつけ)-小家(しようけ)という血縁的同族団的関係とによって掌握された。1733年,藩は藍方御用場を創設し藍を専売とした。56年(宝暦6)凶作と暴風雨の被害で困窮した百姓は名西郡高原村常右衛門ら5人を中心に,藍玉税廃止を求めて一揆を企画したが,事前に発覚,首謀者山口吉右衛門ら5人が処刑された(五社宮(ごしやみや)騒動)。佐竹氏から養子に入った10代藩主重喜は藩政改革に着手,66年(明和3)には歩相銀(ぶあいぎん)と玉師株を廃し,藍作百姓の願いを入れた。このころ藍の栽培地域は7郡230ヵ村に及び,作付面積5000町歩,藍玉出量15万俵,販売価格30万両に達した。藩と藍商は結託し莫大な利益をあげた反面,百姓の疲弊はひどかった。1841年(天保12)三好郡山城谷に起こった一揆は年貢の軽減,タバコの自由販売を要求するもので,美馬郡から阿波郡へと藍作地帯にまで波及した。

 62年(文久2)蜂須賀茂韶(もちあき)は京都守護のため上洛,徳島藩も幕末政争にまきこまれていった。淡路城代家老稲田邦稙(くにたね),天羽生岐城(あもうきじよう),小杉榲邨(すぎむら),安芸梅軒らが討幕運動に参加した。69年(明治2)14代藩主茂韶が版籍を奉還し藩知事となった。このとき家老稲田氏家臣が淡路の分離独立を求めたため,徳島から家臣が襲撃する事件(庚午事変)が起こり,淡路が徳島県から分離され,兵庫県に帰属する遠因をつくった。後に稲田氏の家臣の多くは北海道に移住した。71年徳島藩は廃止され,徳島県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳島藩」の意味・わかりやすい解説

徳島藩
とくしまはん

阿波(あわ)(徳島県)と淡路(あわじ)(兵庫県)の両国を領有した藩。外様(とざま)。藩主は蜂須賀(はちすか)氏。戦国末期の阿波は土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)に領有されていたが、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の四国征伐で元親が土佐に退いたあと、蜂須賀家政(いえまさ)が播州龍野(ばんしゅうたつの)から18万石で入封し、関ヶ原の戦いで家政は豊臣秀頼(ひでより)に領国を返上したが、嫡子至鎮(よししげ)は東軍に加わったため戦後改めて阿波国を領有することになった。さらに1615年(元和1)大坂夏の陣の戦功で淡路国7万石が加増され、25万石の徳島藩が確立した。その後は忠英(ただてる)、光隆(みつたか)、綱通(つなみち)、綱矩(つなのり)、宗員(むねかず)、宗英(むねてる)、宗鎮(むねしげ)、至央(よしひろ)、重喜(しげよし)、治昭(はるあき)、斉昌(なりまさ)、斉裕(なりひろ)、茂韶(もちあき)と14代約270年を経て明治維新まで両国に君臨した。

 藩祖家政は入部直後に一宮(いちのみや)城を居城としたが、ただちに吉野川三角州上に徳島城を築造し、翌年に居城を徳島に移した。初代至鎮は淡路加増後の1618年に「御壁書二十三箇条」を制定し、以後の領国経営の祖法となった。そのあと忠英と光隆までは藩主による直仕置(じきしおき)で藩政が運用されたが、4代綱通のときから家老によって領国経営がなされた。1685年(貞享2)のころに徳島城下町が整備を終わり、93町余、町人人口2万5590人と記録されている。吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産品で全国に市場をもち、1804年(文化1)のピーク時には27万6000俵を産出し、藩経済を大きく支えていた。そのほかに良質の撫養(むや)塩と上板(かみいた)地方の阿波和三盆(わさんぼん)糖、上郡(かみごおり)の阿波刻煙草(きざみたばこ)なども知られている。

 11代治昭の1791年(寛政3)、城下に藩校の寺島学問所が設置され、のち長久館と改称し藩士の子弟に文武を学ばせた。また1795年に医師学問所、1865年(慶応1)に洋学校が開校し、庶民の入学も許し優れた医師を輩出する基盤となった。1869年(明治2)版籍奉還を経て71年に徳島県となり、名東(みょうどう)県と改称されたが、76年に高知県に併合され、さらに80年に高知県から分離し徳島県が再置された。

[三好昭一郎]

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藩名・旧国名がわかる事典 「徳島藩」の解説

とくしまはん【徳島藩】

江戸時代阿波(あわ)国名東(みょうどう)郡徳島(現、徳島県徳島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は長久館。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が土佐に退いたあと、1585年(天正(てんしょう)13)に秀吉の家臣蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が18万石で入封(にゅうほう)した。家政は1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いの際、豊臣氏に恩義があったため、どちらに味方するか苦悩し、領地を豊臣秀頼(ひでより)に返納して出家、高野山に入ることで中立の立場をとった。ただ、長男至鎮(よししげ)の妻が徳川家康(とくがわいえやす)の養女であることを理由に、至鎮を東軍に参加させ、戦後に改めて阿波1国を与えられた。さらに15年(元和(げんな)1)の大坂の陣(夏の陣)に参陣した至鎮の戦功により淡路(あわじ)国7万石を加増され、これにより阿波・淡路2国25万石の徳島藩が成立した。蜂須賀氏は1733年(享保(きょうほう)18)に藍(あい)を専売化し、明治維新まで14代にわたって両国を治めた。1871年(明治4)の廃藩置県で徳島県となり、名東(みょうどう)県と改称されたあと、76年に高知県に編入されたが、80年に高知県から分離して徳島県が再置された。淡路国(淡路島)は、70年に起きた庚午(こうご)事変(稲田騒動)を遠因として、76年に名東県から分離して兵庫県に編入された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳島藩」の解説

徳島藩
とくしまはん

渭津(いのつ)藩・阿波藩とも。阿波国徳島(現,徳島市)を城地とする外様大藩。1585年(天正13)豊臣秀吉の四国平定後,秀吉により蜂須賀家政が17万5700石を与えられ,播磨国竜野から入封。関ケ原の戦後,徳川氏が家政の嫡子至鎮(よししげ)に本領安堵,さらに大坂の陣の戦功に対し淡路国が加増され,以後14代にわたる。1633年(寛永10)家老益田豊後が分離立藩を企てて海部(かいふ)騒動がおきるが,幕府裁許により落着。藩領は阿波・淡路2国内に25万7000石。78年(延宝6)新田5万石を分与し富田(とみだ)藩が成立したが,1725年(享保10)富田藩主正員(宗員)が徳島藩世子となり廃藩,旧領に復した。特産品の吉野川流域の藍,鳴門地方の撫養(むや)塩田の塩などは藩政前期から専売とされた。1842年(天保13)前年の煙草作人の今治藩領逃散に続き,阿波5郡に及ぶ徳島藩最大の上郡(かみごおり)一揆がおきた。詰席は大広間,天保期は大廊下。藩校は寺島学問所(1790設立)など。廃藩後は徳島県となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳島藩」の意味・わかりやすい解説

徳島藩
とくしまはん

阿波藩ともいう。江戸時代,阿波国 (徳島県) ,淡路国 (兵庫県) を領有した藩。天正 13 (1585) 年に蜂須賀家政が阿波一国 17万 6000石で徳島地方に封じられたのに始る。元和1 (1615) 年の3代至鎮のとき,大坂夏の陣の功により池田氏除封のあとの淡路一国8万 1000石を加増され,25万 7000石となった。延宝6 (78) 年7代綱矩 (つなのり) のとき隆重に5万石を分与して支藩の富田藩を創設したが,享保 10 (1725) 年に4代富田藩主の正員 (まさかず) が徳島藩宗家8代藩主に襲封したため富田藩は宗家に還付され,以後明治4 (1871) 年 19代茂韶 (もちあき) のとき廃藩置県となるまで藩域は変らなかった。阿波藍の専売は特に著名で,製塩業とともに有力な藩の財源であった。外様,江戸城大広間詰。

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百科事典マイペディア 「徳島藩」の意味・わかりやすい解説

徳島藩【とくしまはん】

阿波(あわ)藩とも。阿波国徳島に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1585年蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が入封,以降同氏が在封。阿波国・淡路(あわじ)国で領知高約18万6000石〜25万7000石。
→関連項目阿波国海軍総裁撫養塩田陸軍総裁

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デジタル大辞泉プラス 「徳島藩」の解説

徳島藩

阿波(徳島県)、淡路(兵庫県)の2か国を領有した外様藩。阿波国、徳島(現:徳島県徳島市)を本拠地とした。阿波藍の専売で知られる。藩主は蜂須賀氏。

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世界大百科事典(旧版)内の徳島藩の言及

【アイ(藍)】より

…他方,藍作人は藍作の展開に伴って,逆に商品経済の好餌となり経営が破綻し,貧窮化の様相を強めた。ところで徳島藩では阿波藍の利潤に注目し,1733年(享保18)には〈藍方御用場〉を新設し,葉藍取引税の徴収など葉藍専売制ともいうべき政策に着手した。しかし56年(宝暦6)の〈藍玉一揆〉(五社宮騒動。…

【阿波国】より

… 1841年(天保12)凶作と物価高にあえぐ農民に増徴策をとったことに端を発し,三好郡を中心とし阿波郡にいたるタバコ作地帯で一揆(上郡(かみごおり)騒動)が起こった。62年(文久2)藩主茂韶(もちあき)の上洛を機に徳島藩も幕末の政争にまきこまれていった。家老稲田邦稙,天羽生岐城,小杉榲邨(すぎむら),安芸梅軒などが討幕派として活躍した。…

【蜂須賀氏】より

…江戸時代に阿波・淡路両国25万7000石を所領とした外様大名で,徳島藩主。出自は尾張国守護斯波氏の支流が海部郡蜂須賀(現,美和町)に土着した豪族といわれる。…

※「徳島藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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