日笠の浦
ひかさのうら
「万葉集」巻七に「印南野は行き過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」とあり、推古天皇一一年征新羅将軍当摩皇子の妻舎人姫王が赤石(明石)で没したため、赤石の檜笠岡の上に葬ったという(「日本書紀」同年七月六日条)。檜笠岡=日笠山とし赤石を狭義に解して日笠の浦は印南野の東端、明石川の河口とする説がある。しかし前述の万葉歌の初二句が「餝磨江は漕ぎ過ぎぬらし」との異伝があり、これを重視して七世紀代の明石国を律令制下の明石・印南・賀古・美嚢各郡にまたがるものとする広義にとれば、日笠の浦高砂説が有力となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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