旧別子(読み)きゆうべつし

日本歴史地名大系 「旧別子」の解説

旧別子
きゆうべつし

[現在地名]別子山村旧別子

別子銅山の別子山村側の中心地域。銅山越どうざんごえから足谷あしたに山を下り銅山川沿いに日浦ひうら辺りまでを含む。大正期(一九一二―二六)に銅山本拠が現新居浜にいはま市の東平とうなる端出場はでばに移ってから旧別子と総称するようになった。

足谷山は銅山山ともよばれるようになり、そのうち銅山越のすぐ南側がまえ山、その東に天満てんま山、さらにひがし山山腹の東延とうえんと続き、ほかに小足谷こあしだに高橋たかばしなどの小字がある。

おもな間符の歓喜まぶのかんき間符は、横に並ぶ歓東かんとう間符とともに銅山越の南斜面にあり、銅山発祥の地で、大露頭発見を喜んで歓喜と名付けたという。この辺りは山方やまかたともよばれた。正徳三年(一七一三)の予州宇摩郡別子御銅山覚書にはすでに、歓喜・歓東・床屋とこや大和やまと中西なかにし自在じざい天満・東山二ヵ所の九間符と、ほかに水抜風回し口数ヵ所とみえる。大和間符は元禄八年(一六九五)立川たつかわ銅山(現新居浜市)大黒だいこく間符と抜き合い、境界争いになったことで知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の旧別子の言及

【別子山[村]】より

…江戸前期,泉屋(住友家)によって別子銅山が開かれると鉱山町として発展,明治期後半には人口1万2400余に及んだ。大正期には銅山の中心が西の現新居浜市域に移り,それまで中心であった地域は旧別子と呼ばれるようになった。旧別子と新居浜市側を結ぶ銅山越え一帯は銅山峰と称され,ハイキングコースとなっている。…

※「旧別子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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