別子山村
別子銅山は元禄四年(一六九一)に開鉱され、昭和四八年(一九七三)の閉山まで約二八〇年間、曲折はあったが世界有数の銅山として活動を続けた。
元禄三年に切上り長兵衛の発見報告に基づき、泉屋の田向重右衛門らが現地を見立て、別子型鉱床といわれる大鉱床の先端部露頭を発見、同年に稼行願を提出、さらに翌年幕府の指示により再提出した。その別子銅山稼業願書(別子銅山公用帳、泉屋叢考)には、
とあり、代官後藤覚右衛門は好意的意見書を添えて上申したので、同年五月九日には認可され、泉屋は同月次の請書(別子銅山公用帳)を伊予国代官に提出した。
請書にはこのほか年季を守ること、山御入用金は山の善悪にかかわらず毎年五月に五〇両上納すること、金銀鉱発見の節は指図を仰ぐこと、百姓の障にならないよう注意すること、切支丹取締・勝負事取締・火の用心・番所普請の負担などのことを誓約している。開坑は
鉱床発見については「別子銅山公用帳」(住友修史室蔵)に、貞享四年(一六八七)宇摩郡
開鉱の年五千一二二貫(三万二千一八斤)余の銅を産出して以後急増し、元禄一一年には二五三万五千一七一斤に達し、江戸時代を通じての最高を記録した。
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愛媛県新居浜市にあった銅鉱山。1690年(元禄3)の発見以来,1973年までおよそ300年にわたって採掘が行われ,標高1300mの銅山峰の露頭から海面下950mのレベルにまで達したが,品位の低下と地圧の制御が困難となり閉山した。鉱床は三波川結晶片岩層中の含銅硫化鉄鉱床で,新居浜市から宇摩郡別子山村(現,松山市)にまたがる。走向方向に1~1.5km,傾斜延長2.3km以上,平均厚さ2.5mの層状をなし,傾斜45~70度で,周囲の母岩の構造にしたがって曲がったり折れたりしながら連続している。鉱石は緻密(ちみつ)堅硬な硫化鉱物(黄鉄鉱,黄銅鉱,セン亜鉛鉱,および硫化鉱物ではないが,磁鉄鉱または硫化鉱物の磁硫鉄鉱)からなる部分と,緑泥片岩中に磁化鉱物が縞状に鉱染した部分,磁鉄鉱に富む部分とがある。世界的にも大きい層状含銅硫化鉄鉱床で,閉山までに3000万t近い鉱石を生産したが,銅量にして70万tにも達するという。久根(くね)(静岡県),佐々連(さざれ),大久喜(おおくき)(以上愛媛県),白滝(しらたき)(高知県)など三波川結晶片岩類中に知られる諸鉱山を代表して,この型の鉱床は別子型銅鉱床と呼ばれる。
執筆者:山口 梅太郎
幕領の別子山村域に銅鉱が発見された翌1691年,大坂の泉屋(住友)の経営下に開坑した。稼行のおもな条件は,(1)出銅のうち山師取り分の1割3分を運上銅とし,これを代銀納する,(2)炭釜(すみがま)運上とし,炭釜10口につき1ヵ年銀30枚上納する,(3)年季は5ヵ年,(4)坑木・薪炭用に銅山付近の雑木,朽木,立枯木を使用するなどである。産銅は逐年増加し,98-99年に年産1500tを超え,1銅山としては明治以前の産銅記録をつくった。1702年泉屋が稼行を計画した備中吉岡銅山(現岡山県高梁市,旧成羽町吹屋)の分と合わせ,幕府から拝借金1万両と,1石の代銀50匁とし10ヵ月延べ上納の買請米6000石が許された。買請米制度はその後に代価,石数に変化はあったが,別子の経営をおおいに助けた。さらに請負年季は5ヵ年であったが,実質的に永代請負となったことは,江戸時代の鉱山稼行として画期的なものといえる。隣接した立川山(たつかわやま)村域の立川銅山は西条藩領であったが,04年(宝永1)幕領となり,49年(寛延2)泉屋の江戸店手代名儀で稼行を許され,62年(宝暦12)名実ともに別子・立川両銅山は泉屋の一手稼行となった。しかし,別子の産銅は18世紀に入りしだいに減り,1718年(享保3)600tを割り,立川併合後も明治以前には年産600tをわずかに超えたのは数ヵ年である。別子銅は大部分長崎輸出銅にあてられ,54年(宝暦4)からは秋田・南部銅とともに輸出銅を分担した。
明治維新にあたり別子,立川は幕領のため,住友はその経営権を失おうとしたが,ようやく免れた。1874年フランス人技師ルイ・ラロックを招き,開発計画の作成を依頼した。95年東延斜坑の開通,99年新居浜惣開(そうびらき)の洋式製錬所建設,さらに銅山・惣開の間の新車道敷設などは,彼の設計に基づき実施された。1875年泉屋は住友本社に改組され,別子はその直営となり,1927年独立の会社として住友別子鉱山(株)が設立され,以来37年に住友鉱業,46年に井華鉱業,50年に別子鉱業,52年に住友金属鉱山と逐次改組された。1920年代から住友化学工業,住友機械工業などが鉱山より分離独立した。当時年産銅1万2000~1万3000t。60年から下部竪坑,大斜坑開削に着手,67年粗銅月産5400tの設備をしたが,自山銅は1割にすぎず,73年閉山した。
一方,鉱毒水による国領川下流域の汚染や製錬所からの煙害ははなはだしく,住民の激しい反対運動がおこり,1895年,製錬所は四阪島に移された。
執筆者:小葉田 淳
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江戸時代以来の代表的銅山。1690年(元禄3)発見、住友吉左衛門(すみともきちざえもん)(友芳(ともよし))により翌年開坑。愛媛県新居浜(にいはま)市の南部、旧新居浜市と旧宇摩(うま)郡別子山村(2003年新居浜市に編入)にわたり、海抜1200メートルの地帯から斜めに深く長く帯状に貫入した大鉱床は世界的にも希有(けう)といわれる。たびたびの災害にもかかわらず順調に産銅を増やし、1698年には近世において一銅山としては日本最大量の1500トンに達した。これは銅の輸出に占める割合が増大した時期で、住友の大きな財源となった。幕府は国策上銅の増産を奨励、別子銅山は助成金の貸与、安値米払下げなどの庇護(ひご)を受けた。しかし、鉱山の宿命である燃料、坑木の遠距離輸送、坑道の深長と湧水(ゆうすい)の増加、鉱石品位の低下に苦慮、産銅は漸減し、経費はかさんでいった。明治維新を迎え、外国の技術、機械の導入など漸進的に近代化を進めて、幕末には400~500トンに落ち込んでいた産銅が逐年飛躍的に増大し、開坑200年の1890年(明治23)には2000トンに達した。一方、近代化に伴い煙害問題が発生、製錬所の四阪島(しさかじま)移転など煙害防除に腐心、中和工場を完成してこれを解消した。別子銅山は関連諸事業発展の母体となったが、採鉱が深部に及び災害発生の危険増大と鉱石品位の顕著な低下のため、1973年(昭和48)閉山。
[川崎英太郎]
『地方史研究協議会編『日本産業史大系7』(1960・東京大学出版会)』
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愛媛県東部にあった代表的銅山。1691年(元禄4)開坑から1973年(昭和48)閉山まで一貫して住友が稼行。幕領の別子山村で採掘されたが,当初は同一鉱床を別の山師が新居浜側から西条藩領立川(たつかわ)銅山としても稼行していた。のち立川は上知され,1762年(宝暦12)住友の一手稼行となった。最初から輸出銅の多くを占め,55年から長崎御用銅72万斤を分担した。明治維新時に稼行の継続を政府に認めさせ,フランス人技師ラロックに近代化計画を作成させた。1899年(明治32)本拠を別子から新居浜に移す。新居浜・四阪島製錬所の煙害問題の解決のために硫酸を製造するなど,事業会社が派生して住友財閥を形成,現在も住友グループの特色をなしている。
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… 暴動の原因は,現場係が賃金査定の際にわいろを要求するなど鉱夫処遇に不公正があったこと,日露戦争の戦費をまかなうための増税,物価騰貴による実質賃金の低下などであった。07年には足尾のほか幌内炭鉱(4月),別子銅山(6月)で暴動が起きたのをはじめ,全国各地で労働争議が頻発し,第1次大戦前の最高を記録した。足尾暴動は,これら一連の争議の口火を切り,起爆剤的役割をはたした。…
…古河財閥と政府は,被害農民の反対運動を権力によって弾圧した。これに対して,別子銅山と日立鉱山の事件は製錬所の亜硫酸ガスによる大気汚染事件である。これらの事件では長期にわたる農民の反対運動が繰り返された結果,企業は公害対策をせざるをえず,今日の公害対策を考えるための主要な原則が確立したという点で重要である。…
… 足尾鉱毒事件以後,鉱害事件での政府の対応は,事態の再現をおそれた慎重なものとなった。別子銅山をめぐっては,1892年ころより新居浜での製錬事業が拡大するとともに煙害が激増し,製錬所を1904年には四阪島へと移転したが,これは被害を広域化させただけであった。住友財閥は当初は煙害を否定したが,10年に至り,農商務大臣の斡旋のもとで処理鉱量の制限を含む賠償契約を締結,この契約は39年に亜硫酸ガスの中和施設が完成して被害が激減するまで,10次にわたる更改を通じて効力を維持した。…
… (2)の年貢総額を貨幣納するいわゆる皆金納の地域としては幕領では,伊予,但馬,飛驒,大和,信濃などの諸国が挙げられているが,その事情は一様でなくそれぞれ独自の要因と仕法をもっていた。伊予は別子銅山を控えているために年貢米はすべて払米(はらいまい)となり銅山師の買請米に回されて,幕府への納入はすべて銀になったものである。但馬は生野銀山にたいする払米,飛驒の場合も御林(おはやし)の榑木(くれき)方渡しにたいする払米のために生じたもので,伊予の場合とともに,幕府にとっては皆金納であるが,農村側からすれば米納を含んでいた。…
…坑内に湧出する水をくみ上げるのに用いた水桶も発見されている。 人力に頼っていた時代には,坑内から水をくみ出す作業はたいへんなことであったに違いないが,1691年(元禄4)に開発された愛媛県の別子銅山でさえも,その開発は水との闘いであったという。山頂に近い露頭部で採掘が始まったころには,無数の坑口が作られて採掘が行われたようであるが,採掘区域が深くなり水がたまりだすと,坑口は統合され,山腹から採掘場の下部へ向けて掘進された排水坑道によって水を流下させる方法がとられるようになった。…
…住友家は,2代友以(とももち)が京都で銅商泉屋を興し,1620年代から大坂を本拠として銅の精錬・輸出と外国品の輸入という家業の基礎を固め,3代友信,4代友芳の時代に諸銅山の稼行,江戸・長崎出店の設置,両替・為替業へ進出して,隆盛期を迎えた。また事業上の担保として家屋敷数十ヵ所を所有するとともに質地の流れ込んだ山本新田などの田畑を経営し,幕末には別子銅山の近辺で飯米用の新田を開発した。
[銅精錬・銅輸出・諸貨物輸入業]
友以の実父蘇我理右衛門は,粗銅中に含まれる銀を抽出する南蛮吹の技術を開拓した銅精錬業者で,1630年ごろ大坂に勃興した同業者たちはこの技術をとり入れた。…
…1842年(天保13)には石高1028石余,戸数605(うち漁家240),人口2986,船24,漁船80余に発展している。近世を通じての新居浜の発展の要因は,漁業と廻船業の盛行,新田開発,そして住友による別子銅山の開発にある。1702年(元禄15)別子銅山と新居浜浦を結ぶ道が開かれると,産銅や鉱夫の生活必需品などの管理・輸送に携わる口屋(くちや)が設置され,口屋を中心に市街地ができ,商業も発達した。…
…平家落人の三兄弟によって開発されたという伝えが残る。江戸前期,泉屋(住友家)によって別子銅山が開かれると鉱山町として発展,明治期後半には人口1万2400余に及んだ。大正期には銅山の中心が西の現新居浜市域に移り,それまで中心であった地域は旧別子と呼ばれるようになった。…
※「別子銅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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