ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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(2019-01-26 朝日新聞 夕刊 1社会)
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江戸時代以来の代表的銅山。1690年(元禄3)発見、住友吉左衛門(すみともきちざえもん)(友芳(ともよし))により翌年開坑。愛媛県新居浜(にいはま)市の南部、旧新居浜市と旧宇摩(うま)郡別子山村(2003年新居浜市に編入)にわたり、海抜1200メートルの地帯から斜めに深く長く帯状に貫入した大鉱床は世界的にも希有(けう)といわれる。たびたびの災害にもかかわらず順調に産銅を増やし、1698年には近世において一銅山としては日本最大量の1500トンに達した。これは銅の輸出に占める割合が増大した時期で、住友の大きな財源となった。幕府は国策上銅の増産を奨励、別子銅山は助成金の貸与、安値米払下げなどの庇護(ひご)を受けた。しかし、鉱山の宿命である燃料、坑木の遠距離輸送、坑道の深長と湧水(ゆうすい)の増加、鉱石品位の低下に苦慮、産銅は漸減し、経費はかさんでいった。明治維新を迎え、外国の技術、機械の導入など漸進的に近代化を進めて、幕末には400~500トンに落ち込んでいた産銅が逐年飛躍的に増大し、開坑200年の1890年(明治23)には2000トンに達した。一方、近代化に伴い煙害問題が発生、製錬所の四阪島(しさかじま)移転など煙害防除に腐心、中和工場を完成してこれを解消した。別子銅山は関連諸事業発展の母体となったが、採鉱が深部に及び災害発生の危険増大と鉱石品位の顕著な低下のため、1973年(昭和48)閉山。
[川崎英太郎]
『地方史研究協議会編『日本産業史大系7』(1960・東京大学出版会)』
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… 暴動の原因は,現場係が賃金査定の際にわいろを要求するなど鉱夫処遇に不公正があったこと,日露戦争の戦費をまかなうための増税,物価騰貴による実質賃金の低下などであった。07年には足尾のほか幌内炭鉱(4月),別子銅山(6月)で暴動が起きたのをはじめ,全国各地で労働争議が頻発し,第1次大戦前の最高を記録した。足尾暴動は,これら一連の争議の口火を切り,起爆剤的役割をはたした。…
…古河財閥と政府は,被害農民の反対運動を権力によって弾圧した。これに対して,別子銅山と日立鉱山の事件は製錬所の亜硫酸ガスによる大気汚染事件である。これらの事件では長期にわたる農民の反対運動が繰り返された結果,企業は公害対策をせざるをえず,今日の公害対策を考えるための主要な原則が確立したという点で重要である。…
… 足尾鉱毒事件以後,鉱害事件での政府の対応は,事態の再現をおそれた慎重なものとなった。別子銅山をめぐっては,1892年ころより新居浜での製錬事業が拡大するとともに煙害が激増し,製錬所を1904年には四阪島へと移転したが,これは被害を広域化させただけであった。住友財閥は当初は煙害を否定したが,10年に至り,農商務大臣の斡旋のもとで処理鉱量の制限を含む賠償契約を締結,この契約は39年に亜硫酸ガスの中和施設が完成して被害が激減するまで,10次にわたる更改を通じて効力を維持した。…
… (2)の年貢総額を貨幣納するいわゆる皆金納の地域としては幕領では,伊予,但馬,飛驒,大和,信濃などの諸国が挙げられているが,その事情は一様でなくそれぞれ独自の要因と仕法をもっていた。伊予は別子銅山を控えているために年貢米はすべて払米(はらいまい)となり銅山師の買請米に回されて,幕府への納入はすべて銀になったものである。但馬は生野銀山にたいする払米,飛驒の場合も御林(おはやし)の榑木(くれき)方渡しにたいする払米のために生じたもので,伊予の場合とともに,幕府にとっては皆金納であるが,農村側からすれば米納を含んでいた。…
…坑内に湧出する水をくみ上げるのに用いた水桶も発見されている。 人力に頼っていた時代には,坑内から水をくみ出す作業はたいへんなことであったに違いないが,1691年(元禄4)に開発された愛媛県の別子銅山でさえも,その開発は水との闘いであったという。山頂に近い露頭部で採掘が始まったころには,無数の坑口が作られて採掘が行われたようであるが,採掘区域が深くなり水がたまりだすと,坑口は統合され,山腹から採掘場の下部へ向けて掘進された排水坑道によって水を流下させる方法がとられるようになった。…
…住友家は,2代友以(とももち)が京都で銅商泉屋を興し,1620年代から大坂を本拠として銅の精錬・輸出と外国品の輸入という家業の基礎を固め,3代友信,4代友芳の時代に諸銅山の稼行,江戸・長崎出店の設置,両替・為替業へ進出して,隆盛期を迎えた。また事業上の担保として家屋敷数十ヵ所を所有するとともに質地の流れ込んだ山本新田などの田畑を経営し,幕末には別子銅山の近辺で飯米用の新田を開発した。
[銅精錬・銅輸出・諸貨物輸入業]
友以の実父蘇我理右衛門は,粗銅中に含まれる銀を抽出する南蛮吹の技術を開拓した銅精錬業者で,1630年ごろ大坂に勃興した同業者たちはこの技術をとり入れた。…
…1842年(天保13)には石高1028石余,戸数605(うち漁家240),人口2986,船24,漁船80余に発展している。近世を通じての新居浜の発展の要因は,漁業と廻船業の盛行,新田開発,そして住友による別子銅山の開発にある。1702年(元禄15)別子銅山と新居浜浦を結ぶ道が開かれると,産銅や鉱夫の生活必需品などの管理・輸送に携わる口屋(くちや)が設置され,口屋を中心に市街地ができ,商業も発達した。…
…平家落人の三兄弟によって開発されたという伝えが残る。江戸前期,泉屋(住友家)によって別子銅山が開かれると鉱山町として発展,明治期後半には人口1万2400余に及んだ。大正期には銅山の中心が西の現新居浜市域に移り,それまで中心であった地域は旧別子と呼ばれるようになった。…
※「別子銅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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