豊臣秀吉の大坂城および城下町建設により、天満も新たな発展の機会をもつ。大名屋敷は黒田孝高・織田信雄(入道して常真)の二邸があったと考えられる(大阪市史)。天正一三年(一五八五)五月、本願寺が天満宮の東側に寺地を与えられ、同一九年京都
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪市北区の大部分の旧地名。大川以北の地で,旧天満堀川(1872年埋立て)を境として西天満と東天満に分かれる。地名は大坂天満宮鎮座の地に由来するという。天満宮は東天満の中央部に位置し,もと大将軍の森と称する神域であったが,天暦年間(947-957)村上天皇の勅願により社殿を創建し,天満宮を勧請したもので,のち後水尾天皇のとき御神影ならびに天満宮の社号を与えられたと伝える。石山合戦(1570-80)のとき焼失したが,豊臣秀吉が大坂に築城すると,天満宮会所支配人であった大村由己が再建を願い出て,ほどなく社殿を回復した。1585年(天正13)には貝塚本願寺にいた顕如が秀吉から寺地を寄進され,この地に移転して天満本願寺(川崎本願寺)を創建したため,門前町として栄えた。大坂夏の陣後の1615年(元和1)大坂城主となった松平忠明は,大坂市中および近接村落の諸寺院を小橋村,東西高津村と天満村に集め,天満村に西寺町,東寺町をつくり,翌年川崎に東照宮を創建した。このころの天満はまだ大坂市中ではなかったが,29年(寛永6)ごろには天満組となり,惣会所が設けられて,北組および南組とともに大坂三郷と総称されるようになった。町数は三郷のなかでは最も少なく,51年(慶安4)で60町,95年(元禄8)で71町,1780年(安永9)ごろには109町であった。もっとも,天満というときは天満組の範囲よりもかなり広く,堂島,堂島新地から長柄町までをも含み,飛地もあった。雑喉場(ざこば)魚市場とともに,大坂の三大市場と称された天満青物市場,堂島米市場などがあり,また諸藩の蔵屋敷も多数設置されて,大坂の商品流通の一中心であった。明治時代以降は造幣局をはじめ工場の進出も盛んで,大阪時計会社,天満紡績会社やビール工場,ガラス工場などもあった。
執筆者:藤本 篤 第2次大戦で戦災をうけたが復興も早く,官公庁,学校,商店が集中。JR環状線,地下鉄堺筋線,同谷町線,阪神高速大阪守口線,国道1号線が通じ,都心の梅田,中之島に隣接する天満地区は,ビル建設が進んでオフィス街の性格を強めている。扇町公園や通り抜けの桜で有名な造幣局があり,7月の天神祭は船渡御でにぎわう。
執筆者:服部 昌之
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