朝日日本歴史人物事典 「早川弥五左衛門」の解説
早川弥五左衛門
生年:文政2(1819)
幕末の越前(福井県)大野藩士。名は武英,字は文雄,号は寛斎。嘉永4(1851)年内山隆佐の後任として西潟5000石の代官となる。安政3(1856)年の探索以降,大野藩の蝦夷地関係の事務を内山と共に行う。安政5年以降,大野藩の樺太開拓の中心となる。文久3(1863)年,日露の争点となったトコンペ事件を処理。翌年樺太開拓などの功により目付,北蝦夷地事務総督代理に就任。明治維新の際,精英技隊頭取となる。明治3(1870)年に開拓使権参事となるが翌年辞任し,北海道への移住を企図するが失敗,教員となる。
(麓慎一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報