( 1 )[ 一 ]の例よりも、[ 二 ]を指す例の方が多く見られる。
( 2 )鎌倉幕府第二代執権北条義時の頃から代々蝦夷管領を世襲した安東(藤)氏の譲状に「えそのさた」とある〔安藤宗季譲状‐正中二年(一三二五)九月十一日〕。
( 3 )江戸時代には、現在の北海道は「蝦夷地(えぞち)」または「蝦夷島(えぞがしま)」と呼ばれていた。→「えびす(夷)」の語誌
日本古代史上、北東日本に拠(よ)って、統一国家の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たちの呼称。「えみし」「えびす」ともいう。従来、「アイヌか日本人(和人)か」という人種論を縦糸にし、これに横糸として「蝦夷征伐」の歴史を織り合わせる形で、研究が進められてきた。現在では、その人種論、征伐史観ともに、大きな転換を迫られる研究段階にきている。
[高橋富雄]
日本神話では、いわゆる「天孫民族(てんそんみんぞく)」が新しくきて、国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に発展した。『類聚国史(るいじゅうこくし)』では、エゾを「風俗部」に数え、これを一種の「国内殊俗(しゅぞく)」すなわち「国内異民族」扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に正しいのであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてきたところに、この議論の誤りがあった。
[高橋富雄]
初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシはもともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味である。他方、この勇者は、神武(じんむ)歌謡以来、「東の抵抗する勇者」として意識されるに至っている。「エミシを一人(ひたり)、百(もも)な人 人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべきである。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称(せんしょう)ということになる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその性格規定である。「夷」はヒナとも読んだが、「あずま」もヒナ=辺鄙(へんぴ)の意味であった。エミシはヒナ人である。律令(りつりょう)時代に彼らが無法、無道とされるのもこの意味である。すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、文化的な蛮族観念である。人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。古代国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側からすれば、未開、野蛮な人たち、その意味での政治的、文化的異民族であったのである。人種上の異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。
[高橋富雄]
『日本書紀』景行天皇(けいこうてんのう)27年条には「東夷の中、日高見国(ひたかみのくに)あり。その国の人、蝦夷という」とある。これは、同じエミシのなかでも、東国エミシと日高見エミシは異なることを指摘し、後世のエゾに連なるエミシ、すなわち固有の意味のエゾ観念を示すものとして注目される。日高見国はすなわち「道奥(みちのく)」をさしたと考えられる。これまで、ただ「夷」と書いていたエミシを「蝦夷」と書いて区別するようになった点でも、特別なエミシが意識されたことを物語る。この景行紀の記事は、大化改新前後のエゾ事情を反映しているものと考えられ、歴史時代のエゾ観念の成立とすることのできるものである。そこで、エゾ経営が東北に進み、とくに激しい軍事的対抗関係に入るようになった東北中部あたりから以北のエゾについては、実際に人種的にも別種の人たちではなかったかと考えられる。その人名、地名についても、このあたりからヤマト語では説明できないものが出てきて、この人たちが「アイヌ系」であることを物語っている。この人たちが、もう少し時代が下り、場所も北海道に近づいて、エミシとも区別してエゾとよばれ、アイヌであることをはっきりさせるが、そうなるまでには、この「アイヌ系」のなかでかなりの変化があったと思われる。10~11世紀ごろは、北方アイヌ系の人たちの間に、かなり大きな「ヒトの変革」があって、中世エゾ=アイヌの成立になったものと思われる。
[高橋富雄]
これまで、日本古代国家は4~5世紀のころヤマト国家として成立し、その後は、これを体制的に整えるのが国家の仕事で、国家を外に拡大する仕事は、国家悪者退治という程度に考えてきた。熊襲(くまそ)征伐、隼人(はやと)征伐、みなそうである。その最たるものに蝦夷征伐がくる。しかし、この「征伐史観」は正しくない。誤りの根本は、国家成立史観にある。4~5世紀のころのヤマト国家は、瀬戸内海中心の西日本国家として、第一次の成立をみただけである。その外側には、日本列島の半分にも上る広大な地域が、独立・半独立の状態に置かれていた。その残された独立諸日本を統一して初めて日本国家は完成するので、それまでは日本列島国家は成立しない。その第二次統一国家、第三次統一国家の統一戦争として、熊襲征伐も隼人征伐もあるのだが、とくにエゾ征伐とされているのは、東日本、北日本全体の経営にかかわるのであるから、これは日本国家形成の最大の統一事業のように考える必要がある。だから、そのとらえ方も「蝦夷征伐」のような悪者退治史観ではなしに、日本史を二分するような東西抗争史観を根底に置いて、「西の挑戦」に「東の応戦」を対置して、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地に主権が進んで、初めて日本国家は完成するという史観に改まってこねばならない。エゾ経営史は国家成立史である。
[高橋富雄]
エゾ人種論は、それがアイヌであるか日本人であるかさえ決まれば、それですべては解決すると考えてきた。エミシがエゾになり、最後にアイヌになっていくのには、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地へ、何百年にもわたって、何百里も移動する民族の流離の歴史のあったことは没却されている。「エゾ征伐」を論じてきた人たちは、戦争が終わってしまえば、それでエゾ問題は終了したと考えてきた。エゾ経営は、外にたつエゾを内に組織し、そのエゾ世界に統一日本を実現することを目的とした。エゾ問題は、その目的がどう実現したかを見届けて終了する。これまでのエゾ征伐史観には、この観点が欠落していた。それは、古代エゾを中世エゾに送り届け、アイヌとしての歴史に至り着くのを見届ける必要があるとともに、国家のなかに編成されたエゾたち、すなわち俘囚(ふしゅう)らが、どのように「内民」としての「同等」を成し遂げたか、もしくは成し遂げないで「内なる独立」を保持し続けることになるのか。そのような「それからのエゾ問題」にも、しっかりした見通しをたてておく必要がある。彼らについて「俘囚郷」というムラの存在が知られ、彼らの「調庸(ちょうよう)の民」化が進まなかったことからすれば、この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる。
[高橋富雄]
最近、アイヌも沖縄の人たちと同じ南方系のヒトで、北方系ではないのではないかという意見が強く出されている。アイヌ語についても、本来、日本語と同系ではなかったかという見解も有力になってきている。中央部に新しい大陸的要素が入って、日本は大きく変わった。もとは「一つの日本」であった。エゾはその原日本の担い手になるのでないか。そういうことも考えられてきている。
[高橋富雄]
古代蝦夷は、大和国家(やまとこっか)形成過程において領域内に組み込まれる人々としてまず登場する。「崇神紀(すじんき)」における大彦命武渟川別(おおひこのみことたけぬなかわわけ)の北陸・東国視察、「景行紀(けいこうき)」における武内宿禰(たけしうちのすくね)の東方視察とそれに続く日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国経営、毛野(けぬ)氏と蝦夷との確執、「斉明紀(さいめいき)」の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の日本海側北行事業などにおいてである。いずれも説話的伝承的記事である。大化改新後、越国(こしのくに)(新潟県)に渟足柵(ぬたりのき)・磐舟柵(いわふねのき)の両柵(さく)が設置されるが、この時期の国家領域は新潟県・福島県北部に及んだことになる。7世紀後半に陸奥国(むつのくに)、712年(和銅5)には出羽国(でわのくに)が設置されると、両国北辺における蝦夷支配と対立とが律令(りつりょう)国家にとって大きな課題となった。養老令(ようろうりょう)によれば、両国は「辺遠国」「辺要国」であり、「夷人雑類」の居住地。国司の任務は「饗給(きょうきゅう)、征討、斥候(せっこう)」という他国にはない任務が付加されている。
奈良時代前期、仙台平野に国府兼鎮守府(ちんじゅふ)の多賀城(たがじょう)ができ、漸次、建郡、城柵建設が進むと、ここに柵戸(きのへ)・鎮兵として東国・北陸の農民が徴発・配備された。蝦夷は姓(せい)を与えられ、戸籍に編入されて班田農民化する者、交易関係を通じて緩やかな支配を受ける者とがあった。しかし国家収奪の強化、交易関係の混乱、現地社会の内部対立などから絶えず政情不安が生じた。709年(和銅2)陸奥・越後(えちご)蝦夷の乱、720年(養老4)陸奥蝦夷の按察使(あぜち)上毛野広人(かみつけぬのひろひと)殺害、724年(神亀1)陸奥蝦夷の大掾(だいじょう)(国司三等官)殺害事件などが起こり、いずれも征討軍の派遣をみる。また737年(天平9)大野東人(おおののあずまひと)による東国騎兵1000人、陸奥国兵5000人、鎮兵、蝦夷らを駆使した鎮撫(ちんぶ)政策と出羽柵への直通路開発事業や、758年(天平宝字2)の陸奥国桃生城(もものうじょう)、出羽国雄勝城(おがちじょう)建設などは現地社会の矛盾を激化させたのであろう。770年(宝亀1)蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)の離反を契機に、仙台平野北部から北上(きたかみ)盆地にかけての地域は以後約30年に及ぶ動乱期を迎えることになる。なかでも780年「俘軍(ふぐん)」を率いた上治(かみはり)(伊治(これはる))郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の乱は、私怨(しえん)に起因するとみられたが、牡鹿(おじか)郡大領道島大楯(みちしまのおおたて)・按察使参議紀広純(きのひろずみ)殺害と多賀城の陥落という事態に発展した。桓武天皇(かんむてんのう)は「坂東の安危は此(こ)の一挙に在り」という認識で3回にわたる征討戦に大軍を投入する。788年(延暦7)征東将軍紀古佐美(きのこさみ)による衣川(ころもがわ)付近の戦闘は官軍の損亡3000人に及ぶ大敗。794年征東大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)による10万人の征軍には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが副将軍に起用され、斬首(ざんしゅ)457、捕虜150、焼亡75か所という戦果。801年は田村麻呂が征夷大将軍として4万人を率い、翌年胆沢城(いさわじょう)築城と胆沢蝦夷大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)、盤具公母礼(ばぐのきみもれ)ら500余人の降人を得、さらに志波城(しわじょう)築城までも行った。この段階で国家領域は岩手県北部に伸長したことになる。その後811年(弘仁2)征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさて)(岩手・青森県境)、閉伊(へい)(岩手県東部)に2万人の兵を展開、815年に至って胆沢、多賀(たが)などの諸城柵および軍団に兵士・健士(有勲者)を重点的に配備する軍制改革が行われた。
他方、出羽国では、878年(元慶2)国司苛政(かせい)に反発した上津野(かづの)(鹿角)、野代(のしろ)(能代)など12か村の「夷俘」の反乱(元慶(がんぎょう)の乱)が勃発(ぼっぱつ)するが、帰順した「義従俘囚」動員の成功や、出羽権守(でわごんのかみ)藤原保則(ふじわらのやすのり)、鎮守府将軍小野春風(おののはるかぜ)の懐柔策により動乱は終息。秋田城、雄勝城、国府を中心とする軍制改革をみた。こうして律令国家にとっての辺要国での蝦夷問題は、最北辺の国境線を明確にせぬまま終わった。
この間、全国各地に分散移住させられた蝦夷は俘囚とよばれ、「俘囚計帳」に登録されるようになって調庸民化する者、調庸は免除され禄物(ろくもつ)が与えられるが、軍事力を期待されて要害警備の任につく者、平安末期に至るまで、朝廷儀式に参集することを義務づけられた者などの姿があった。『延喜式(えんぎしき)』によれば35か国に「俘囚料稲」が計上され、『和名抄(わみょうしょう)』では6郡に「夷俘郷」の名がみられる。
[弓野正武]
『古代史談話会編『蝦夷』(1963・朝倉書店)』▽『高橋富雄著『蝦夷』(1963・吉川弘文館)』▽『新野直吉著『古代東北の開拓』(1969・塙書房)』▽『豊田武編『東北の歴史 上巻』(1967・吉川弘文館)』▽『大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社)』
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日本古代史上,東北日本に拠った土着の人たちをひろくさしたことば。ただしその呼称・内容は,時代・地域によって大きく異なり,その性格を一義的に規定することを困難にしている。また,アイヌとどうかかわるかもむずかしい問題である。このことばは,もともと政治的・文化的に〈中央〉を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民),その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)をさす中華観念にもとづいているから,人種的観念であるアイヌか日本人かという議論の立てかたとは一致しないところがある。しかし平安時代にはいり,地域も東北地方中部以北に移るにつれて,地名や人名その他から,この人たちが,後世のアイヌにきわめて近い人たちであり,東北最北部から北海道にかけては,蝦夷はすなわちアイヌということになる。そこで〈蝦夷とは,日本古代国家形成にあたり,東日本・北日本により,その統一政治・統一文化の支配に抵抗していた人たちのことで,アイヌは最後の蝦夷になる〉というふうに整理することができる。
蝦夷の最初の読みはエゾではなくエミシであった。エゾの称がはっきりするのは,平安中期以降である。すなわち,蝦夷が古代史上の主題をなしていたときには,エゾという蝦夷は存在せず,エミシという蝦夷の時代だったのである。またそのエゾはほぼアイヌにあたり,エゾの語源は諸説あるものの,アイヌ語に由来し〈人〉の意味であることがはっきりしているが,エミシがアイヌ語である証拠は薄い。むしろこれは,勇者・武人の意味の漢語からきたヤマトことばとすべきである。そのため人名にも用いられる美称にもなった。しかし従来はこのようなエミシたる蝦夷を,エゾたる蝦夷と同じものと考えていた。そうして,後世の観念で古代をも律するあやまちをおかすことになった。また漢字表現でも,はじめ〈毛人〉と書きあらわされ,7世紀半ば,大化改新のころから〈蝦夷〉字を用いるようになった。そして以後は,勇者という意味の美称エミシは〈毛人〉という形で主として人名などに,強暴なる抵抗民たちという意味のエミシには〈蝦夷〉が用いられるようになった。戦争によって捕虜になったり,もしくは降伏した蝦夷は〈俘囚(ふしゆう)〉〈夷俘〉というふうに呼ばれる。彼らは,大量に内国に送られ,それぞれの国で〈俘囚郷〉をつくって生活した。俘囚は,蝦夷の後身,平和な形をとった蝦夷問題として,北辺にアイヌという形で残る蝦夷問題と並べて,古代以後の蝦夷問題の中心テーマをなすものといえる。
エゾが,東日本・北日本によった人たちの抵抗にかかわることばであることがはっきりした以上,蝦夷問題は,日本古代国家形成史上,その裏面をなす問題ということになる。畿内中心に第1次的に組織された日本古代国家の基本は西日本国家たるところにあった。日本列島の半分以上にもあたる東日本・北日本がまだその支配の外に立っていた。この〈もう一つの日本〉が〈蝦夷国〉ということになる。その抵抗を排除し征服して,これを統一国家の支配の中に編成していくのが〈蝦夷経営〉である。従来,これは〈蝦夷征伐〉としてとらえられていたが,日本列島の半分以上にも及ぶ区域の統一をとらえる性格規定としては適当とはいえない。古代国家統一戦争という観点から位置づけ,〈蝦夷経営戦争〉というようなとらえかたが適切であろう。その段階は,次のように整理して考えることができる。(1)東国経営 日本武(やまとたける)尊の蝦夷経営伝説などによって明らかなように,大和朝廷時代の東国経営は,第1次蝦夷経営である。統一国家の中に組織された東国エミシの位置づけが〈あずま〉ということになる。(2)城柵経営 大化改新とともに古代国家の蝦夷経営は,北越から東北に舞台を移し,城柵を建造,柵戸(植民)を内国から移し,開拓を行いながら,フロンティアを北進させていき,出羽柵・秋田城(出羽国),多賀城・胆沢(いさわ)城(陸奥国)を中心に,経営は,秋田県八郎潟付近-岩手県盛岡市付近を東西に結ぶ線あたりまで北進した。(3)俘囚郷と蝦夷地 平安初頭の坂上田村麻呂の強力遠征は,古代国家の蝦夷経営の北限となった。岩手最北部,秋田北半部から北の日本は最後の蝦夷国として残る。北海道が近世を通じて〈蝦夷地〉と呼ばれたのは,この古代蝦夷の伝統がそのまま残ったものである。そして〈外に残った蝦夷〉たる北の蝦夷地のエゾに対して,〈内に再編された蝦夷〉として,古代以後の内国に蝦夷問題を伝えていくのが〈俘囚〉と呼ばれる人たちである。東北では阿倍氏,清原氏,藤原氏(奥州藤原氏)の問題がこれにかかわる。その他の内国にも35国にもわたり俘囚が配置され俘囚郷を形成,蝦夷問題の解決を待ったのである。
→アイヌ →蝦夷地
執筆者:高橋 富雄
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
古代の東北地方を中心とした地域の住民に対する呼称。毛人(もうじん)・蝦蛦(かい)・蝦狄(かてき)・夷・俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ)など多様な表記・表現があり,「えびす」とも読み,平安中期以降は「えぞ」と読む。古くは東国の人々を毛人と称したが,のちに言語・風俗・文化などを異にし,政治的にも朝廷に従わない人々を区別して蝦夷とよび,奈良時代以降は服属した蝦夷を大きく蝦夷・俘囚に編成した。語源や実体がアイヌか否かをめぐり諸説があるが,現在のところ定説はない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…〈アイヌ〉はアイヌ語で〈人〉〈人間〉〈男〉の意であるが,和人(アイヌはシサムと称す。シサムはアイヌ語で隣人の意)は,中国の中華思想の影響を受けて近世末まで蝦夷(えぞ)・蝦夷人と称した。ただし古代の蝦夷(えみし)は,主として奥羽地方以北の住人を指した語で,アイヌそれ自体を指した語ではない。…
…この点歴代天皇の中でも異色の存在である。 在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず784年(延暦3)6月長岡京造営工事をはじめ,11月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良(さわら)親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。…
…日本古代において,捕虜になるか降伏して国家支配下に置かれた蝦夷(えぞ∥えみし)をいう。夷俘とも称された。…
※「蝦夷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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