蘭学者(らんがくしゃ)。幼名を直政、のちに鄭(てい)と改め、宗吉は通称で、字(あざな)を伯敏、伯軒、絲漢(しかん)堂、曇斎(どんさい)などと号した。幼少のころ阿波(あわ)(徳島県)から大坂に移住し、傘の紋かきの仕事に従事していたが、エレキテルなどの奇器にも非常な興味をもっていた。間重富(はざましげとみ)と小石元俊(こいしげんしゅん)に才能をみいだされ、その援助で28歳のころ江戸に出て、大槻玄沢(おおつきげんたく)の蘭学塾「芝蘭堂(しらんどう)」で学んだ。帰坂後は、間や小石のために医学・天文・地理書などの翻訳をした。初めは北堀江(現、大阪市西区)に住んでいたが、安堂寺町(現、中央区)に移り、文政(ぶんせい)(1818~1830)の初めころには車町(現、南区塩町)に住み、塾を開いて絲漢堂と称し、蘭学を教え、一方、医師として医業にも携わった。1827年(文政10)切支丹婆事件(キリシタンばばあじけん)が起こり、弟子の藤田顕蔵(ふじたけんぞう)(1770/1781―1829)がこれに関連して捕らえられたため、宗吉は一時、芸州竹原(広島県竹原市)に逃れたといわれる。このころからしだいに不遇となり、天保(てんぽう)7年5月1日74歳で没。墓は竹原市上本町の念仏寺にある。
大坂蘭学の開祖といわれ、弟子に伏屋素狄(ふせやそてき)、大矢尚斎(おおやしょうさい)(1765―1826)、各務文献(かがみぶんけん)(1755―1819)、藤田顕蔵、斎藤方策(さいとうほうさく)(1771―1849)、中天游(なかてんゆう)などがいる。著書や訳書も多い。1796年(寛政8)『喎蘭(オランダ)新訳地球全図』をつくり、『蘭科内外三法方典』(1805刊)を翻訳、1819年(文政2)には『西洋医事集成宝函』(巻1~6は1819~1823刊、以下30巻まで未刊)を編んでいる。オランダのボイスVoyceの本などを基に『エレキテル訳説』を書き、さらに『阿蘭陀(オランダ)始制エレキテル究理原』(1811)を著している。『エレキテル究理原』は出版はされなかったが、日本で初めてのエレキテル実験書として著名である。
[菊池俊彦]
『『日本科学古典全書 第6巻』(1943/復刻版・1978・朝日新聞社)』▽『『江戸科学古典叢書11 エレキテル全書他』(1978・恒和出版)』▽『『江戸科学古典叢書26 三法方典』(1979・恒和出版)』
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…18世紀前半のヨーロッパで摩擦起電機やライデン瓶が発明され,電気ショックで人をおどろかせる見世物や遊び道具として人気を得たが,この知識が日本にもたらされ,後藤梨春(1702‐71)が《紅毛談(オランダばなし)》(1765)にはじめてエレキテルを紹介し,平賀源内は1776年(安永5)にはじめて蓄電器つきの摩擦起電機をつくった。以後,森島中良(1756‐1810),高森観好(1750‐1830),橋本宗吉(1763‐1836)などもつくっている。橋本宗吉稿の《阿蘭陀始制エレキテル究理原》(1881)は,それに付した実験の絵とともに有名である。…
…同じ時期オランダ舶載の地球儀や地図の翻訳も始まり,1737年(元文2)ころ長崎の天文学者北島見信と通詞西善三郎とが協力してファルク作地球儀から展開した世界図(大阪府立中之島図書館蔵)を作っている。刊行された初期の蘭学系世界図としては,1792年(寛政4)の司馬江漢の作品(銅版),96年の橋本宗吉の作品(木版)がよく知られている。蘭学系世界図の大きな特色は,東西両半球をそれぞれ円形として描く点であった。…
※「橋本宗吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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