日本大百科全書(ニッポニカ) 「最上紅花」の意味・わかりやすい解説
最上紅花
もがみべにばな
羽州村山地方(山形県村山盆地)の江戸期の特産物で、全国一の産額をみた。「最上」は江戸期以前の地名。ベニバナがこの地方に栽培された記録の初見は中世末で、18世紀なかばごろには「最上千駄」といわれて生産量が増加し、その大部分は京都西陣(にしじん)織の染料に使われた。産地では干し花(花餅(はなもち))まで加工し、これが最上川を下り、酒田から海船で敦賀(つるが)へ、さらに大津を経て京都へ運ぶのが主要な販路であった。この地方にベニバナ栽培が発展したのは、最上川中流部が肥沃(ひよく)な適作地であったこと、上方(かみがた)との商品流通が水運を通して活発であったことがあげられる。元禄(げんろく)期(1688~1704)には尾花沢(おばなざわ)に紅花大尽ともいわれた豪商鈴木八右衛門(はちえもん)が現れ、その名は松尾芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』でも知られるが、のちには山形・谷地(やち)などに多数の紅花商人が輩出し、この地方の経済をリードした。しかし幕末期には唐紅(からべに)や化学染料が輸入され、ベニバナの栽培も急速に衰えた。
[横山昭男]
『今田信一著『最上紅花史の研究』(1980・高陽堂書店)』