木太村
きたむら
[現在地名]高松市木太町
福岡村・松縄村の東に位置し、春日川下流域西側平野に立地する。西寄りを詰田川が北流する。村域はすべて平坦地。古代の山田郡喜多郷(和名抄)の遺称地。戦国時代向城に香川氏に属した真部祐主が拠った(南海通記)。天正一四年(一五八六)八月二四日仙石秀久は木太郷内六ヵ村のうち六六〇石を由佐三郎五郎家盛に宛行っている(「仙石秀久黒印状」由佐家文書)。慶長一一年(一六〇六)生駒一正は、同郷のうち四二五石七斗余を含む一千八四三石七斗余を代官所に預け置いている(「生駒一正預ケ状」真砂文書)。寛永国絵図では木太郷として高一千八〇二石余(木太郷・西片本・西村を含む)。同図では屋島との間を海として描いている。また春日村と当村の間も潮のさしてくる遠干潟であったという(南海通記)。寛永一四年(一六三七)西島八兵衛は福岡村から当村・春日村を経て新川に至る潮防堤を築き、遠干潟を干拓し新田を開いた。当村域ではすべり浜新開・木太夷新開ができ(翁嫗夜話)、このうち後者は同一七年の生駒領高覚帳では夷村新田として分村している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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