春日村(読み)かすがむら

日本歴史地名大系 「春日村」の解説

春日村
かすがむら

[現在地名]春日市春日一―一〇丁目・若葉台東わかばだいひがし一―五丁目・紅葉もみじ丘西おかにし一―七丁目・紅葉もみじ丘東おかひがし一―一〇丁目・平田台ひらただい一―五丁目・惣利そうり一―六丁目・ちくしだい一―五丁目・塚原台つかはらだい一―三丁目・春日公園かすがこうえん一―八丁目・春日原東町かすがばるひがしまち一―四丁目・春日原南町かすがばるみなみまち一―四丁目・春日原北町かすがばるきたまち一―五丁目・千歳町ちとせまち一―三丁目・原町はらまち一―三丁目・春日

御笠みかさ川の支流、ほぼ北東流する牛頸うしくび川の中流域にあり、春日丘陵の南東部に位置する。東は御笠郡瓦田かわらだ村・白木原しらきばる村・上大利かみおおり(現大野城市)。小早川時代の指出前之帳では春日村は田六九町三反余(分米八六〇石余)・畠二三町二反余(分大豆一七八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は一千五六石余(慶長石高帳)。慶長六年博多聖福しようふく寺に二〇〇石(「黒田長政寄進状」聖福寺文書)、博多承天じようてん寺に一〇〇石の寺領が与えられ(「黒田長政寄進状」承天寺文書)、同一七年一月残りの七五七石余が黒田美作守一成の給知となった(「黒田長政知行目録」三奈木黒田家文書)


春日村
かすがむら

[現在地名]望月町春日

蓼科たてしな山北麓、鹿曲かくま川の最上流に位置する。南は大河原おおがわら(二〇九三メートル)付近で現茅野ちの市に接し、西は丘陵を越えて八丁地はつちようじ川の谷から雨境あまざかい(現立科町)の稜線に出る。

「日本書紀」景行天皇五五年の項に出る「春日穴咋邑かすがあなぐいむら」はこの辺りとされ、北の比田井ひたい地籍には彦狭島王の墓と伝えられる古墳を残す(長野県町村誌)。諏訪郡山浦やまうら地方(現茅野市)に通じる雨境峠、古墳群を含む土師遺跡のある春日から、布施ふせを越えて県境の碓氷うすい峠を結ぶ道を原初の東山道の道筋と推定すると、彦狭島王説も一概に否定できない。

中世には伴野ともの庄春日郷といわれ(建武元年「大徳寺文書」)、地頭と考えられる春日氏が居を占めた。その居館は現在の康国こうこく寺辺りで、春日本郷北側は屋敷町としての形を残しており、鎌倉時代に構築されたもののあとを受けていると推定されている。


春日村
かすがむら

[現在地名]太子町春日

古市郡飛鳥あすか(現羽曳野市)の南にあり、東は二上にじよう山北麓の穴虫あなむし峠で大和国に通じる。東へ高くなる丘陵地に位置し、北西に向かって飛鳥川が流れ、竹内たけのうち街道がほぼこれに沿う。東部山地に旧石器時代の穴虫峠あなむしとうげ遺跡があり、周辺には角礫状のサヌカイト原石が多くみられ、おびただしい遺物が散布する。江戸時代中期以前に采女氏塋域うねめしえいいき碑とよばれる石碑が出土した。碑の実物は失われ、銘文は寛政六年(一七九四)撰の「好古小録」等によって知られるのみであったが、昭和五八年(一九八三)静岡県立博物館所蔵文書中にあった拓本が公開された。拓本によると我国で最も古い時期に属する将棋の駒の形をした圭首形の碑で、縦三八センチ・横二四センチ。拓本では刻文のない上下が一部カットされている。浄御原朝廷に仕える官人采女竹良が墓域とする形浦山四千代(八町)を犯し穢すことを禁じたことを内容とし、己丑年(持統三年)一二月二五日の日付をもつ。


春日村
かすがむら

[現在地名]熊本市春日一丁目・同三―五丁目・春日町

祇園ぎおん(現花岡山)の南斜面、万日まんにち(一二八メートル余)の東斜面に広がり、東は久末ひさすえ村、西は池上いけのうえ村、南は阿弥陀寺あみだじ村に接する。年月日未詳の飽田南郷金光名内安芸権守押領分注文(詫摩文書)に「一所 春日前屋敷一所 同所畠地弐町」とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方二町五反余・畠方二八町二反余、分米二四〇石七斗余とある。同一三年の検地帳では田方一六町六反余・畠方二三町一反余、分米三八六石五斗余で、家数四五、男三一・女二三、むば三・せがれ七、牛馬一三を記す。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では横手又右衛門手永に属し、当竿前は田一一町二反余・畠一八町三反余でほかに新地野開四町八反余があり、一反三歩の祭田を記載する。


春日村
かすがむら

[現在地名]松江市春日町

法吉ほつき村の南に位置し、村内東部に田原谷たはらだに池がある。中世の当地一帯は国衙領であったとみられる。

〔中世〕

春日村にはかつて奈良春日社の末社が存在し(雲陽誌)、春日末社とよばれ、のちそれが地名に転化して春日(春日郷)が成立したと考えられる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の八番に「春日末社十三丁奈胡四郎太郎」とみえる。年月日未詳の永禄四年杵築大社三月会四番頭役進未注文写(佐草家文書)には「廿(十カ)三町 嶋根郡之内春日末社」とあって、春日末社は島根郡内に存在していた。


春日村
かすがむら

[現在地名]入善町春日

黒部川扇状地の末端にあり、東は古黒部ふるくろべ村、西は横山よこやま村、南は藤原新ふじはらしん村・また村。近世初めまで黒部川の主流部の一つはこの辺りを流れていた。延徳三年(一四九一)越後に向かった冷泉為広は「越後下向日記」三月一六日条に「カスガ クロヘノ河ヲ皆過」と記している。黒部川の治水が進み川筋が西に移ったため、慶長九年(一六〇四)前田利長は春日村に対し「彼在所鮭役之儀、於黒部川鮭取候事就無之者、役義有之間敷事」と、鮭役を廃止している(「前田利長判物」越中古文書)


春日村
かすがむら

[現在地名]高松市春日町

木太きた村の東に位置し、西を春日川、東と北をしん川が限る、両川の下流域の平野部に立地する。新川の旧流路は久米くめ山の西端から西に流れ、春日川と合流して海に注いでいたといい(古高松郷土誌)、当村は瀬戸内海に面した遠干潟で、木太村との間には海の中道が通じていたという(南海通記)。寛永国絵図に村名がみえ、本山もとやま郷に所属。寛永一四年(一六三七)生駒氏によって堤防が築かれて干潟の干拓が行われ、春日新開と称する新田が開かれた。


春日村
かすがむら

[現在地名]平戸市春日町

獅子しし村の北に位置し、北西にはたつノ瀬戸を挟んで生月いきつき(現生月町)がある。一五五八年(永禄元年)頃からヴィレラ神父により春日でも説教が始められた(フロイス「日本史」)。一五六一年豊後国からイエズス会のアルメイダ修道士が布教のためカスガなどを巡回、飯良いいらからは船で三レグワ、村人すべてがキリシタンで、修道士は海陸の眺望のよい地に教会を建て、装飾は平戸から送らせたという(同年一〇月一日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信)。一五六三年平戸にいたイエズス会上長トルレス神父の指示でフェルナンデス修道士らがカスガや獅子・飯良などのキリシタンを巡訪したが、その際当村にも教会と慈悲の組があり、組頭と教会の世話人がいて一人の異教徒もいなかったという(同年四月一七日「フェルナンデス書簡」イエズス会士日本通信)


春日村
かすがむら

面積:一一一・五七平方キロ

郡の南西端を占める。伊吹山地東部で、耕地が少なく、集落は山の急斜面や河谷底の小さな平地に営まれている。北は坂内さかうち村・久瀬くぜ村、東は池田いけだ町・揖斐川いびがわ町、南は不破郡垂井たるい町・関ヶ原町、西は滋賀県坂田さかた伊吹いぶき町と接する。伊吹町境に国見くにみ峠、池田町境近くに池田山、揖斐川町境に小島おじま山、久瀬村境に貝月かいづき山がそびえ、これらの水を集めてかす川が東流する。村域の東部は揖斐関いびせき原養老はらようろう国定公園で、南西部は伊吹県立自然公園となっている。中世、守護土岐氏の拠点が小島城に置かれ、一時当地は美濃の中心となった。近世の初めは村域全体が池田郡西山にしやま村として把握され、豊臣秀吉の蔵入地であった。


春日村
かすがむら

[現在地名]大和町大字久池井くちい字春日

北に春日山をひかえ、西を惣座そうざ、南を久池井、東を北原きたばるの各村に囲まれた山麓から平野に向かう南斜面の村である。前隈山まえくまやま古墳をはじめ、原始時代から古代にかけての遺跡が多く、甘南比かんなび神社は甘南備かんなび(春日山)の南麓にあるが、山そのものが神体で古代の神事が行われたと考えられている。河上かわかみ神社の大宮司職を務めた高木氏は、平安末期から中世にかけて甘南備城(春日山城)を築いていた。


春日村
かすがむら

[現在地名]枚方市春日〈きた町一―五丁目・西にし町一―四丁目・もと町一―二丁目・ひがし町一―二丁目〉・春日野かすがの一―二丁目・津田駅前つだえきまえ一丁目

洪積層の丘陵台地に位置する。中央部を野々のの川が南流する。交野かたの郡に属し、北と東は野村・津田村。天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)によれば、石田弥三(正澄)がかすが村二〇〇石、石田左吉(三成)が同村二〇〇石を知行しており、各々右のうちより二〇石出米と注記される。寛永一〇年(一六三三)から大坂町奉行曾我古祐領となり、万治元年(一六五八)同曾我近祐領、寛文元年(一六六一)同彦坂重紹領、延宝五年(一六七七)同島田重頼与力領、天和元年(一六八一)同藤堂良直領、元禄元年(一六八八)同能勢頼相領となったが、同三年幕府領に転じ、同七年以降は相模小田原藩領。


春日村
かすがむら

[現在地名]山添村大字春日

広代ひろだい村の西にある。平安中期、藤原氏が新たに藤井ふじい庄を設定し、同庄支配の手段として、同氏の祖神である春日大社祭神を勧請したので、鎮座地を春日村と称した。近世初期ははた郷の内。慶長郷帳には「春日」と記され、村高二七一・一五石。江戸時代を通じて旗本奥田氏(忠高系)領。「大和志」に「木屐 春日村造」とあり、当地の特産であった。

奥田氏は、「大和志」に「春日城奥田氏拠之」とみえる畑郷出身の地侍で、のちに旗本に取立てられた。「寛政重修諸家譜」によれば、奥田三河守八郎右衛門(忠高)は、松永久秀に属して戦功あり、のち豊臣秀吉に属し、畑郷に寓居、関ヶ原戦ののち徳川家康に召され、本領大和国山辺郡と紀伊国名草なくさ郡のうち二千八一一石を賜った。


春日村
かすがむら

[現在地名]柏崎市春日一―三丁目・藤元ふじもと町・柳田やなぎだ町・小金こがね町・北斗ほくと

鯖石さばいし川下流南西岸に位置し、東は橋場はしば村、西は悪田あくた村。近世は元和二年(一六一六)から同四年まで長峰藩牧野忠成領に属したほかは、高田藩領。宝永六年(一七〇九)旗本安藤氏の知行地。安藤氏は刈羽郡五千石、丹波国氷上ひかみ(現兵庫県)二千石で、当村に刈羽郡一一ヵ村を支配する陣屋があった。


春日村
かすがむら

[現在地名]利府町春日

もり郷の北に位置し、大部分が丘陵地。村のほぼ中央を石巻いしのまき街道が通る。村名は春日神社があることによる。正保郷帳によると田三七貫一一八文・畑二貫四七三文、柴山の注記がある。ほかに新田八四六文。「安永風土記」では田三四貫七〇四文・畑四貫四七九文。人頭三〇人・家数三〇、男八四・女八五。村高のうち約五割五分が給所で、「伊達世臣家譜」によると、知行高一〇〇石以上では粟野・市川、家格召出の熊谷・久世の各氏がこの村に在郷屋敷を置いている。

春日神社は「観蹟聞老志」によると、承和一〇年(八四三)(正しくは承和一三年)陸奥出羽按察使となった藤原富士麻呂が、翌一一年に大和春日社を勧請、多賀城の北の上野原にこれを祀ったと伝えている(のち小野田に移転、小野田を春日と改称と伝える)


春日村
かすがむら

[現在地名]大沢野町春日

大沢野下位段丘南端の最も広い部分に位置し、北は稲代いなしろ村、南は笹津ささづ村、東は下タ林したばやし村・西大沢にしおおさわ村、西は長走ながしり村。地名の由来は慶応三年(一八六七)礪波となみ春日吉江かすがよしえ(現高岡市)の吉江某が入植し開拓を始め、春日としたと伝える(大沢野耕地整理事業誌)


春日村
かすがむら

[現在地名]大宇陀町大字春日

松山まつやま町の東北、古城こじよう(松山城跡)西北麓に所在。

慶長郷帳による村高一五八・四三八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元和元年(一六一五)福島氏の改易により織田(信雄)氏領となる。織田家三代長頼が寛文一一年(一六七一)なかしよう村からこの地に新館を築き移転、四代信武を経て五代信休が元禄八年(一六九五)丹波国柏原かいばら(現兵庫県氷上郡柏原町)に転封されるまで松山新陣屋とよばれる居館が設けられ、石垣が今に残る。


春日村
はるひむら

面積:三・九五平方キロ

西春日井郡の西北端に位置し、東は西春にしはる町、南は清洲きよす町、西は稲沢市、北は一宮市と接する。町内の標高は五―六メートル。わずかに北が高く、南に低くなっている。村の中心を五条ごじよう川が南北に貫流している。明治三九年(一九〇六)下之郷しものごう落合おちあいの両村が合併して春日村となり、今日に至っている。春日は西春日井郡から二字をとり、訓読したもので、「将来平和に共同に、春日の温暖なるが如くにして、益々自治の効果を挙げんとする」(西春日井郡誌)願いをこめて命名したものである。


春日村
かすがむら

[現在地名]嬉野町大字吉田よしだ字春日

国見くにみ岳の北山麓に位置し、上吉田かみよしだ村の南にある。正保絵図に村名がみえる。現在、上吉田区に残っている文久三年(一八六三)の藤津郡吉田郷配分上吉田村・田畠・竈数・人別帳には、春日村は上吉田村の中に含まれている。藩政時代は佐賀本藩の家臣鍋島隼人の知行地であった所で、蓮池はすのいけ支藩の領地ではなかった。


春日村
かすがむら

[現在地名]東出雲町春日

出雲郷あだかえ村の西、意宇いう川下流域に位置し、西は大草おおくさ(現松江市)。村域のほとんどは意宇川右岸の丘陵地で、田地は丘陵縁辺と丘陵に刻まれた樹枝状の小谷に開かれるが、集落は同川左岸に立地する。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一六六石余、寛文四年(一六六四)の本田高一五五石余・新田高九石余。


春日村
かすがむら

[現在地名]上越市春日

門前もんぜん村の東、春日山麓に鎮座する春日神社の門前集落。戦国期春日山かすがやま城の城下町として春日町があり、当地もその一角を占めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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