高松城下(読み)たかまつじようか

日本歴史地名大系 「高松城下」の解説

高松城下
たかまつじようか

讃岐平野の北端、かつての香東こうとう川河口の三角洲上に築城された高松城の南正面に発展した近世の城下町。北は瀬戸内海に面し、畿内・中国・四国各地、瀬戸内海諸島との海運の中心でもあった。城南大手の常磐ときわ橋を起点として、東はいま橋から長尾ながお街道・志度しど街道を経て東讃各地に、南は旅籠はたご町・藤塚ふじづか町を経て仏生山ぶつしようざん街道が通り、西はたか橋から丸亀街道によって西讃各地に至る。律令時代は香川郡笑原のはら(篦原・野原)郷に属し、寛文三年(一六六三)の「南海通記」に「中筋十八町白沙海中に入ること一筋の矢篦のごとし、故に笶原と名付也」とある。南北朝時代には守護細川氏に領せられ、戦国期には十河氏・香西氏・岡田氏などの土豪が割拠、また無量寿むりようじゆ院・極楽寺・福成ふくじよう寺・安楽あんらく寺・宝蔵ほうぞう(のちの真行寺)勝法しようほう(のちの高松興正寺別院)大乗だいじよう寺をはじめ多くの寺院が存在したとみられる。

〔生駒氏時代〕

天正一三年(一五八五)四国平定によって長宗我部元親に代わった羽柴秀吉は、家臣仙石秀久、続いて尾藤知宣を讃岐に封じた。しかし知宣は九州征討の際の責任を問われ四ヵ月で追放、同一五年八月生駒親正が讃岐国一五万石の領主に封ぜられた。親正は初め東讃の大内おおち引田ひけた(現大川郡引田町)に入城、続いて西讃の聖通寺しようつうじ(現綾歌郡宇多津町)に移り、同一六年から同一八年、領国のほぼ中央に位置する香東郡野原のはら郷の香東川河口に、海を背面に、南のデルタ平野を正面に水際城を築城、その南側の東浜ひがしはま西浜にしはまなかノ村一帯にまたがって城下町を建設した。

生駒氏時代屋敷割図によると、外堀がそのまま海につながり、東に東浜舟入(東浜港)を商港として築き、その東岸にひがしかこ町(のちの東浜町)、西岸の外曲輪にうち町五町(本町・ときや町・いほのたな町・たたみや町・つるや町)といわれる御用商人町を置いた。西の西浜舟入(堀川港)は藩港で、のち松平頼重時代に西岸に御船蔵が造られた。町人町は城下東部と南部に置かれた。南大手門前の常磐橋から真南に丸亀町筋が、外堀南東隅から南へとおり町筋が延び、道路に面して商家が軒を並べ、城下第一の商人町であった。丸がめ町を中心として東と西に東西方向に長い短冊形の職人町が配置された。東側は北からかたはら町・百間ひやつけん町・大工だいく町・小人町、西側は北から兵庫ひようごかたはら町・古新ふるじん町・ときや町・こうや町・かちや町が並び、内町五町および東かこ町と通町筋・しおやき町を合せて町数一八町、家数一千三六四軒であった。武家屋敷は内町とよばれた外曲輪と、おもに城下の南西部に置かれ、外曲輪に生駒左門・生駒帯刀ら一族重臣屋敷一〇八軒、郭外南西部に北からはまノ丁・一番いちばん丁・二番丁・三番丁・四番丁・五番丁の中・下級武家屋敷一六二軒があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高松城下の言及

【高松[市]】より

…市域には五色台(ごしきだい),屋島,石清尾(いわせお)山などの開析溶岩台地が多く,石清尾山東麓にある栗林(りつりん)公園は生駒・松平両家の別邸を回遊式庭園として明治末~大正初めに造成したもので,特別名勝に指定されている。【坂口 良昭】
[高松城下]
 瀬戸内海交通の要地でもある高松の地名の初出は10世紀前半に成立した《和名抄》で,山田郡高松郷とある。1335年(建武2)には讃岐守護船木頼重が高松城に拠っていた。…

※「高松城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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