杉谷雍助(読み)すぎたに・ようすけ

朝日日本歴史人物事典 「杉谷雍助」の解説

杉谷雍助

没年:慶応2.9.24(1866.11.1)
生年:文政3(1820)
幕末の洋学者,造兵家。佐賀藩士。弘化1(1844)年長崎に遊んで蘭学を学び,江戸に出て伊東玄朴の象先堂塾に入門。伊東玄朴,後藤又二郎,池田才八らと共同で弘化3年にもたらされたヒュゲェニンの大砲鋳造書を翻訳し『鉄熕全書』と名付けた。この書によって佐賀藩の鋳砲を行うことになり,嘉永3(1850)年春に蘭学寮教導に任ぜられ,続いて火術方・大銃製造方兼務を命じられて反射炉築造の技術主任になった。しかし工事に取り掛かってみると翻訳とは違って,耐火煉瓦の原料土から鋳型に用いる砂の選定など困難が多く,また国産の鋳鉄では思うように溶解せず,大砲の形はできても試射のたびにそのほとんどが破裂した。そのためオランダ商館長を訪ねて質問するなどの苦心を重ね,たまたま藩がオランダから購入した商船電流丸のバラストを原料鉄に用いることによって,安政1(1854)年ようやく大砲の鋳造に成功した。佐賀藩の成功で各藩の反射炉築造も盛んになり,雍助の名も一躍有名になった。<参考文献>杉本勲他編著『幕末軍事技術の軌跡』,秀島成忠編『佐賀藩銃砲沿革史』

(所荘吉)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉谷雍助」の解説

杉谷雍助 すぎたに-ようすけ

1820-1866 幕末の蘭学者,造兵家。
文政3年生まれ。肥前佐賀藩士。伊東玄朴に蘭学をまなぶ。嘉永(かえい)3年藩の火術方兼大銃(おおづつ)製造方となり,5年日本で最初の反射炉を完成。安政元年その反射炉で大砲鋳造に成功した。慶応2年9月24日死去。47歳。名は孝賛。字(あざな)は元譲。

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