信達騒動(読み)しんだつそうどう

百科事典マイペディア 「信達騒動」の意味・わかりやすい解説

信達騒動【しんだつそうどう】

江戸時代,陸奥(むつ)国の信夫(しのぶ)郡・伊達(だて)郡で起きた百姓一揆。信達一揆ともいわれ,江戸時代中期と幕末期の一揆がある。1729年幕府代官定免(じょうめん)の引上げなど年貢(ねんぐ)の増徴策を行ったことに対して,百姓が一揆を結び,江戸への越訴(おっそ)や強訴(ごうそ),ほかの大名領内への逃散(ちょうさん)などに及んだ。獄門2人・遠島9人を含めて89人の処分となった。1749年赴任した幕府代官が凶作のなかで年貢増徴策を打ち出したため,一揆して代官所に押し寄せ,減免のほか石代納(こくだいのう)や延納などを要求した。代官は福島藩・仙台藩に応援を求め,一揆指導者の逮捕を始め,処刑に及んだが,百姓側の要求も一部は受け入れられ,代官は翌年に悶死したという。1866年の一揆は世直し騒動とよばれ,幕府が生糸(きいと)・蚕種(さんしゅ)の売買に改印(あらためいん)制を導入して手数料で利益を上げようとした業者を認可したのに対して蜂起したもの。民衆思想家の菅野(かんの)八郎が指導したことで知られるが,米値の引下げ,人馬徴発の軽減などを要求して打毀(うちこわし)を行った。

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改訂新版 世界大百科事典 「信達騒動」の意味・わかりやすい解説

信達騒動 (しんだつそうどう)

信達一揆ともいう。江戸時代,陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)で起こった百姓一揆。この地域では近世後期にしばしば百姓一揆が起こっているが,なかでも1749年(寛延2)の幕領での惣百姓強訴と1866年(慶応2)の世直し騒動は,信夫・伊達両郡にまたがる規模のものであったので信達騒動と呼ばれている。

 (1)寛延の惣百姓強訴は1749年桑折(こおり)代官所の代官として着任した神山三郎左衛門が,凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したのが原因である。管轄下の60余村は再三減免を求める運動を繰り返したが取り上げられなかったため,いっせいに蜂起して代官所へ押し寄せ,年貢減免,安値による石代納と延納,訴状を幕府へ上申しなかった手代の引渡しを要求した。だが日ごろ信頼していた役人が代官を説得することを約束したので解散したところ,説得に応じなかった代官は福島・仙台藩兵に応援を求めて指導者の逮捕に乗り出し,多数を処刑した。しかし農民側の要求は一部認められ,代官神山は翌年悶死した。それは処刑された者の〈たたり〉と伝えられている。

 (2)1866年の世直し騒動は,開港以降,輸出の主要品となった生糸と蚕種の製造販売に幕府が介入統制を加えたのが原因である。信夫・伊達両郡は養蚕,製糸が盛んであり,とりわけ蚕種は有名で,その製造・販売を独占してきた。開港後,糸価の上昇にともない蚕種の需要は伸び,海外輸出も行われるに至ったので,幕府は粗悪品排除の名目で生糸・蚕種の売買に改印制を導入し,その手数料で利益をあげようとした業者の要望を承認した。しかし,これは生産農民を圧迫することになったので,1866年6月両郡の農民は蜂起し,統制に荷担した業者宅をはじめ,長州出兵などによる過酷な人馬徴発の軽減,米価引下げなど世直しを求めて,助郷役人宅まで打ちこわして統制撤廃に成功した。この騒動は民衆思想家菅野(かんの)八郎が指導したことで有名である。
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