ダービー(読み)だーびー(英語表記)14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー(Abraham Darby)
だーびー
Abraham Darby
(1677―1717)

イギリスの製鉄発明家。木炭を燃料とするそれまでの高炉にかわり、初めてコークスを燃料とすることに成功した。オランダから鉄の砂型鋳造の技術を導入し、1707年、ブリストルで薄壁の鋳鉄の鍋(なべ)・壺(つぼ)の製造に成功した。翌1708年セバーン川上流コールブルックデールの放棄されていた高炉を買い、1709年コークスによる高炉操業を開始した。1717年没したとき息子は6歳であったので娘婿(むすめむこ)たちが経営を担当し、鋳鉄の料理鍋、フライパン、シチュー鍋、火格子類をつくり、ニューコメン蒸気機関の部品、鋳鉄管、トロッコ用車輪、鋳鉄軌道、その他さまざまに販路を広げた。1728年から事業に加わったダービー2世(1711―1763)の時代には、送風の改善によって高炉内温度が上昇し、石灰の大量添加による高温高塩基操業による脱硫が可能になり、錬鉄に精錬するのに適した材質の銑鉄をも製造するようになり、コークス銑は鋳造用だけでなく、錬鉄用にも進出した。1768年から経営に参加したダービー3世(1750―1791)の時代にはコールブルックデール製鉄所はイギリス最大の製鉄所となり、ことに彼が中心となって建設された総重量400トンの鋳鉄を使用した鋳鉄橋は、構造材としての鉄の新しい用途を開いた。同製鉄所はコークス高炉のメッカとなり、この技術は全世界へ広がっていった。コークス高炉はH・コートのパドル法とともに製鉄法を木炭製鉄から石炭製鉄の時代に移行させた。この変革にはJ・ワットの蒸気機関が大きな役割を果たした。

中沢護人


ダービー(競馬)
だーびー
Derby

競馬のレース名。ダービー・ステークスthe Derby stakesの略称。1780年ロンドン郊外エプソン高原に住む第12代ダービー卿(きょう)エドワード・スミス・スタンレー12th Earl of Derby, Edward Smith Stanley(1752―1834)が創設した。この前年、ダービー卿はエリザベスハミルトンと結婚したが、そのとき新夫人の願いによって3歳牝馬(ひんば)のみによるレースを行った(これがオークスの始まり)。この催しが当時の競馬界に好評で迎えられたことから、ダービー卿は自分の名を冠した3歳牝牡(ひんぼ)馬の混合レースを思い立ち、1780年5月4日にエプソン高原で距離1マイル(約1600メートル)のレースを行った。これがダービーの始まりである。1784年、有名なタッテナム・コーナーTattenham Cornerのあるダービー・コース(2440メートル)ができた。1920年、タッテナム・コーナーの一部を削って2414メートルになり、以後今日まで毎年6月の第一水曜日に行われ、この日をダービー・デーとよんでいる。競馬場は100万人近い人で埋まり、お祭り騒ぎとなる。

 現在、ダービーの名を冠したレースは世界各国で行われている。アメリカのケンタッキー・ダービー(1875年3月17日、第1回開催)は有名であり、フランスではプリ・デュ・ジョッキークラブ・カップをフランスダービーといい、日本では東京優駿(ゆうしゅん)競走を日本ダービーとよんでいる。しかし同じ3歳馬のレースでも、距離、負担重量などは開催国によって同一ではない。元祖イギリスの距離は1.5マイル1ヤード(2414メートル)、ケンタッキー・ダービーは2000メートル、日本では2400メートルである。

 日本ダービーは、日本競馬界の父といわれる安田伊左衛門(やすだいざえもん)が創設した。1932年(昭和7)4月24日、東京の目黒競馬場で第1回が行われ、ワカタカが優勝、第3回から、現在の東京競馬場(東京都府中市)に移った。開催日は第6回まで4月下旬、第7回からは5月中旬以降と不定期であったが、1957年(昭和32)以降5月の最終日曜日を原則とした。負担重量は第1回が別定重量、第2~8回が牡55キログラム、牝53キログラムであったが、第9回(1940)以降現在の牡57キログラム、牝55キログラムに定められた。牝馬の優勝は第6回のヒサトモ、第12回のクリフジ、第74回のウオッカのみ。1着賞金(本賞)は第1回が1万円、第76回(2009)は1億5000万円である。

[大島輝久・日本中央競馬会


ダービー(14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley)
だーびー
14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley
(1799―1869)

イギリスの政治家。14代ダービー伯。E・H・S・ダービーの父。イートン校、オックスフォード大学で学んだのち、下院議員(1822~1844年、1844年以降上院議員)となり、1830年にはホイッグ党グレー内閣のアイルランド担当相に任じられた。1833年には植民相に転じて帝国内の奴隷制を全廃したが、1835年下野して保守党に移った。1841年にはピール内閣の植民相に就任したが、穀物法撤廃に反対し、党の分裂後、反自由貿易の立場をとる保守党の指導者となった。以後、1852年、1858~1859年、1866~1868年の三度首相を務め、1867年には第二次選挙法改正を実現した。自由党が優位にあった時代に保守党を守り、ディズレーリを政治の表舞台に登場させた功績は大きい。

[青木 康]


ダービー(15th Earl of Derby, Edward Henry Stanley)
だーびー
15th Earl of Derby, Edward Henry Stanley
(1826―1893)

イギリスの政治家。15代ダービー伯。ケンブリッジ大学卒業後、1848年保守党下院議員となり、2年後には処女演説で早くも頭角を現す。1852年父14代ダービー伯の率いる内閣(第一次)の外務次官となり、以後、植民相、初代インド相、外相を歴任。1869年父の死後爵位を継ぎ上院議員となる。1874年第二次ディズレーリ内閣の外相となったが、首相の対露強硬政策に反対して辞職。1880年には自由党に移った。1882年から1885年までグラッドストーン内閣の植民相として、熱帯植民地拡大に反対の立場を守った。しかし、1886年、アイルランド自治に反対して自由党を離れ、J・チェンバレン自由統一党に参加し、1891年まで同党の上院での代表者を務めた。

[石井摩耶子]


ダービー(イギリス)
だーびー
Derby

イギリス、イングランド中部にあるユニタリー・オーソリティーUnitary Authority(一層制地方自治体)の都市。人口22万1716(2001)。バーミンガムの北北東約60キロメートルに位置し、トレント川の支流ダーウェント川に臨む。商工業、行政の中心地。航空機エンジン、陶器、合成繊維、鉄道車両、化学などの工業も発達する。町の前身は七王国時代から知られるが、現在の市の起源はノルマン時代の市場町に始まり、近代に入って毛織物やビールの産地として知られるようになった。イギリス絹織物工業発祥の地で、1719年にイタリアから技術が伝わった。1750年ウィリアム・デューズベリーにより陶器産業が創始され、以後製陶業で有名になった。また1907年にはロールス・ロイス社の本社が置かれた。創立者ヘンリー・ロイス卿(きょう)の像が市内にある。市の美術館は、当地出身の画家ジョセフ・ライトJoseph Wright(1734―97)の作品で知られる。

[久保田武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー(伯家)
ダービー[はくけ]
Derby, Earls of

イギリスの貴族の家柄。フェラーズ家とスタンレー家の2系統がある。 (1) フェラーズ家の系統は,1138年ロバート・ド・フェラーズ (1139没) がスティーブン王から伯爵を授けられて創始。8代伯ロバート (1240頃~79頃) のとき,シモン・ド・モンフォールの反乱に加わって国王ヘンリー3世に抗したため,1266年爵位を没収された。その後,1337年ジョン・オブ・ゴーントの義父ヘンリーが一時復活したが,ほどなく絶えた。 (2) スタンレー家の系統は,1485年 T.スタンレーが伯爵に叙せられたのに始る。3代伯エドワード (1508~72) は,旧教徒ながら北部反乱に加担せず,チューダー朝に忠節を尽した。5代伯ファーディナンド (59~94) もイエズス会士からエリザベス1世排撃の陰謀に誘われたが拒否し,ために毒殺された。7代伯ジェームズ (1607~51) は清教徒革命で忠実な国王派として活躍し,ウースターの戦いで議会軍に捕えられ,処刑された。 1736年 10代伯ジェームズの死をもって直系は絶えたが,2代伯の弟の子孫エドワードが 11代伯を継いだ。 14,15代ダービー (伯)はその子孫。 17代伯エドワード・ジョージ・ビリアーズ (1865~1948) は,1915年志願兵徴募のための「ダービー計画」を立案し,16~18,22~23年の2度陸相をつとめた。

ダービー
Darby, Abraham

[生]1678?. ダッドリー近郊
[没]1717.3.8. マデレーコート
コークスを燃料に用いる製鉄法を開発したイギリスの製鉄業者。ブリストルでコークスを用いた銅精錬業に従事したのち,1708年製鉄会社を設立。低硫黄炭の産地に近いセバーン川沿いのコールブルックデールに製造拠点を設けた。1709年コークスを燃料にした高炉により商品価値の高い鉄を生産することに成功。石炭を用いる溶鉱炉よりはるかに大きい炉を建設することにより,コークスの使用がコストと生産性の両面において優れていることを実証した。ダービーの製造した鉄は質が高く,薄い鋳物にも適していたため,真鍮製にひけをとらない,鉄製鍋など底の深い容器の製造も可能になった。1712年にトーマス・ニューコメンが蒸気機関を発明すると,鉄製シリンダの生産という新たな市場を開拓。長男のエブラハム・ダービー(1711~63)に事業継承後の 1758年までに,100個以上のシリンダがコールブルックデールで製造された。1779年,孫のエブラハム・ダービー3世(1750~91)が世界初の鉄橋(コールブルックデール近郊に現存。→アイアンブリッジ峡谷)を完成。1802年にイギリスの技術者で発明家のリチャード・トレビシックが設計した世界初の鉄道用の高圧蒸気機関もコールブルックデールの製鉄所で製造された。(→産業革命

ダービー
Derby

イギリスイングランド中部の都市。単一自治体(ユニタリー unitary authority)。1997年にダービーシャー県から分離して単一自治体となった。ロンドンの北北西約 180km,ペナイン山脈の南端麓にあり,トレント川支流ダーウェント川の下流部に臨む。古代ローマの要塞の近くにできた古い町で,9世紀にここを占領したデーン人が Deorabyと呼んだことに由来。1750年頃から陶磁器の生産が始まり「ダービー焼」で有名。18世紀初めにイタリアから絹紡績が導入されて以来,織物工業が発展,絹のほか,レース,綿織物などの生産が盛んとなった。19世紀に鉄道の要地となってから,鉄道車両製造,機関車修理などの工業が発達。ほかに,航空機エンジン,機械,化学,印刷などの工業がある。16世紀建築の塔をもつ大聖堂,聖ピーター聖堂など由緒ある建築物が多い。哲学者ハーバート・スペンサーの生地。面積 78km2。人口 23万3700(2005推計)。

ダービー(伯)
ダービー[はく]
Derby, Edward Henry Stanley, 15th Earl of

[生]1826.7.21. ランカシャー
[没]1893.4.21. ランカシャー
イギリスの政治家。 14代ダービー伯の長男。 1848~69年保守党の下院議員。 52年父の第1次内閣の外務次官。保守党にあっても自由主義的でパーマストン (子)から入閣を求められたが拒否。 58年父の第2次内閣の植民相,次いでインド監督局総裁。同年インド法成立に伴い最初のインド相に就任。 66~68年父の第3次内閣の外相。 67年フランスとプロシアの間を仲介,ルクセンブルクの中立に関する集団保障を立案した。 69年上院に移り,74年 B.ディズレーリ内閣の外相。中近東地域についての帝国主義政策に反対し,78年辞職して 80年自由党に入党。 82~85年 W.グラッドストン内閣の植民相。アイルランド自治法に反対し自由党から分離し,86年自由統一派に参加,91年まで同派の上院における指導者であった。

ダービー(伯)
ダービー[はく]
Derby, Edward Geoffrey Smith Stanley, 14th Earl of

[生]1799.3.29. ノーズリー
[没]1869.10.23. ロンドン
イギリスの政治家。首相(在任 1852,1858~59,1866~68)。1820年ホイッグ党に属して議会に入る。1830~33年アイルランド担当大臣。この間 1832年の選挙法改正法(第1次)の成立に尽力。1833~34年陸軍および植民大臣。1834年保守党に移る。1841~44年再び陸軍および植民大臣として西インド諸島の奴隷制廃止を実施した。1852年第1次内閣を組織。1858~59年第2次内閣を組織,インド統治権をイギリス東インド会社からイギリス政府直轄に移管した。1866~68年ベンジャミン・ディズレーリとともに第3次内閣を組織。1867年議会改革法(第2次選挙法改正法)を成立させ,1869年以後保守党党首の地位をディズレーリに譲った。

ダービー
Derby

イギリスで行なわれる競馬クラシック競走の一つ。イギリスの競馬のうち最も賞金が高く,また最大の人気を集めている。1780年に第12代ダービー伯爵らによって創設され,以後第1次・第2次世界大戦中ニューマーケット競馬場で代行されたのを除き,一度も中止されることなく毎年 6月上旬にエプソム・ユーエルのエプソム競馬場で開催されている。距離・負担重量など各種条件はこの間数度にわたり変更され,今日は距離 1.5マイル(約 2400m),負担重量牡馬 9ストン(約 57.2kg),牝馬 8ストン 9ポンド(約 54.9kg)。ダービーに範をとったレースは多くの国で行なわれているが,各種条件は必ずしも同一とはかぎらない。日本では東京優駿(日本ダービー)が,アメリカ合衆国ではケンタッキー・ダービーが開催されている。

ダービー
Darby, John Nelson

[生]1800.11.18. ロンドン
[没]1882.4.29. ボーンマス
イギリスの神学者。アイルランド教会の聖職者であったが,国家からの宗教の独立を主張して,国教会を退き (1827) ,初期キリスト教会の簡素を求めて,同志たちと 1830年頃プリマス兄弟団を結成 (→プリマス・ブレズレン ) 。 47年には兄弟団のなかにダービー派と呼ばれる非開放的なセクトをつくり,その指導者となる。著書多数で,賛美歌集を編んだ。

ダービー
Darby, Abraham III

[生]1750
[没]1791
同名の祖父 (1677~1717) ,父 (11~63) と3代続いたイギリスの製鉄業者。 1779年工場のあったシュロップシャーのコールブルックデールでセバーン川に最初の鉄橋を建設した。

ダービー
Derby

アメリカ合衆国,コネティカット州南西部,ニューヘーブンの西約 10kmにある町。かつては造船や漁業で栄えたが,19世紀中頃に衰微。現在は金属,機械など多様な工業が発達している。人口1万 2199 (1990) 。

ダービー
Derby

オーストラリア,ウェスタンオーストラリア州北東部,フィツロイ川河口の港町。キンバリー高原西部の牧牛業の集散地。近くに灌漑地区があり米作が試みられている。人口 3258 (1986) 。

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