英語を学び、英米の学問をすること。英学は漢学や蘭学(らんがく)の伝統を受け継ぐもので、幕末に始まり明治時代に盛んであった。
[高梨健吉]
日本に最初にきたイギリス人はウィリアム・アダムズで、徳川家康に数学を教えたという。三浦按針(みうらあんじん)と称し、横須賀市に安針塚、伊東市に記念碑がある。1613年(慶長18)にイギリスから通商使節セーリスがきたとき、平戸(ひらど)にイギリス商館を設立するのに協力した。しかし日英通商は長続きできず、10年間で終わった。当時の南蛮貿易にはポルトガル語が通用しており、英語を日本人が学んだという形跡はない。
[高梨健吉]
1808年(文化5)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に乱入し、長崎奉行(ぶぎょう)は責任を負って切腹した。幕府は外国語研究の必要を痛感し、長崎通詞(つうじ)たちに英語とロシア語の学習を命じた。その成果が日本最初の英和辞書『諳厄利亜(あんげりあ)語林大成』(1814)である。やがてイギリスの東洋侵略は進展し、アヘン戦争が起こる(1840)。この年に日本で英文法の本『英文鑑(えいぶんかん)』が編集された。
[高梨健吉]
1853年(嘉永6)ペリーの率いるアメリカ東洋艦隊が来航し、日本は開国を強要された。2年後の55年(安政2)に幕府は洋学所(翌年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称)を設立、外国語研究がようやく盛んになってきた。ここで編集された『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』(1862)は日本最初の印刷本の英和辞書である。開国とともにアメリカから多くの宣教師がくるようになったが、ヘボン編集の『和英語林集成』(1866)は新しい日本文化の発展に役だった。
[高梨健吉]
開国前は、中浜万次郎(ジョン・万次郎)や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)のように漂流してアメリカ捕鯨船に救助され、アメリカで教育を受けた者もある。新島襄(にいじまじょう)は箱館(はこだて)から脱出して、アメリカの大学に学び、帰国して1875年(明治8)に同志社を設立した。幕府は1866年(慶応2)に中村正直(まさなお)など14名を留学生としてイギリスに送った。中村の翻訳した『西国立志編』(1871)はベストセラーとなり、明治の青年に愛読された。福沢諭吉は幕末に欧米に行って西洋文明の実情を知り、『西洋事情』(1866)、『学問のすゝめ』(1872)などを著し文明開化を広めた。彼の創設した慶応義塾は新しい文明の指導者を多く養成した。1871年にアメリカに留学した神田乃武(ないぶ)はのちに日本英学界の指導者となり、同じくアメリカに学んだ津田梅子は1900年(明治33)に女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立。1873年にイギリスに留学した井上十吉(じゅうきち)はのちに優れた英語辞書や英文著作を出している。
[高梨健吉]
日本の近代化はお雇い外国人の力によるところが大きい。アメリカ人クラークは1876年に札幌農学校の創設に招かれ、現在の北海道大学の基礎をつくった。この学校から新渡戸稲造(にとべいなぞう)、内村鑑三(かんぞう)のような国際的な人物が出ている。スコットランド人ダイエルは工部大学校(東京大学工学部の前身)の学校づくりに力を尽くし、工業教育に大きな役割を果たした。77年に開設した東京大学では、フェノロサ、モースなど多くの外国人が教えている。そこで学んだ人には岡倉天心(てんしん)、坪内逍遙(しょうよう)など日本の英学に活躍した人が多い。坪内は早稲田(わせだ)大学の英文科を育て、シェークスピア全訳の偉業を残した。
明治時代にアメリカ人宣教師もまた、日本の学校教育に大いに力を尽くし、キリスト教は日本人の精神文化に大きな影響を与えた。ミル、スペンサー、マコーレー、カーライルなど英米の思想家の影響も大きい。
[高梨健吉]
『大村喜吉・高梨健吉・品川力編『日本の英学100年』全4巻(1968~69・研究社出版)』
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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