東家 浦太郎(初代)
アズマヤ ウラタロウ
- 職業
- 浪曲師
- 肩書
- 日本浪曲協会顧問
- 本名
- 相馬 清(ソウマ キヨシ)
- 別名
- 隠居名=東家 三叟(アズマヤ サンソウ)
- 生年月日
- 大正8年 12月24日
- 出生地
- 東京市 本郷区駒込(東京都 文京区)
- 学歴
- 千駄木小〔昭和7年〕卒
- 経歴
- 小学生の頃から有名な浪曲好きで、昭和7年東家燕左衛門に入門。8年同門の東家楽浦門下となり、15歳で真打ちとなり浦太郎を名乗る。17年東京劇場、18年明治座で独演会を開く。木村若衛、松平国十郎、天中軒雲月と共に関東浪曲の四天王と称され、戦後の浪曲界を担った。また39年から日本浪曲協会会長を7期、14年務めた。平成7年引退し東家三叟を名乗った。得意題目に「野狐三次」「夕立勘五郎」などがある。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和60年〕,勲四等旭日小綬章〔平成3年〕 芸術祭優秀賞(第38回)〔昭和59年〕
- 没年月日
- 平成16年 7月15日 (2004年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
東家浦太郎(初代) あずまや-うらたろう
1919-2004 昭和-平成時代の浪曲師。
大正8年12月24日生まれ。昭和9年東家楽浦に入門し,浦太郎を名のる。声と啖呵(たんか)がよく,「野狐三次」「夕立勘五郎」で人気をえた。39年より連続6期日本浪曲協会会長をつとめた。平成7年引退し東家三叟を名のる。平成16年7月15日死去。84歳。東京出身。本名は相馬清。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の東家浦太郎の言及
【浪花節】より
… このように各派に名手が輩出して全国に流行した浪花節も,大正中期以後,落語,講談とともに映画の進出に圧倒されて衰退の傾向をたどっていたが,昭和時代にはいって,満州事変以後,太平洋戦争にかけて,国家主義的な時代風潮を背景にして,ふたたび隆盛の様相を呈した。この時期には,《壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)》の浪花亭綾太郎(1893‐1960),《佐渡情話》の寿々木米若(すずきよねわか),《天保水滸伝(すいこでん)》の2代玉川勝太郎,《清水次郎長伝》の2代[広沢虎造],《紀伊国屋(きのくにや)文左衛門》の梅中軒鶯童(ばいちゆうけんおうどう),《赤城の子守唄》の春日井梅鶯(ばいおう)(1908‐74),《義士伝》の3代吉田奈良丸,《恩讐(おんしゆう)の彼方に》をはじめとする文芸浪曲の酒井雲(さかいくも)(1899‐1973),《唄入り観音経》の[三門博](みかどひろし)(1907‐ ),《野狐三次(のぎつねさんじ)》の東家浦太郎(1919‐ ),《灰神楽(はいかぐら)三太郎》の相模(さがみ)太郎(1899‐1972),七色の声を使い分けた女流浪曲の雄2代天中軒雲月(伊丹秀子(いたみひでこ))など多くの人気者があらわれ,レコード,ラジオの普及,〈浪曲映画〉による映画とのタイアップなどによって,それ以前にも見られなかったほどに浪花節が大衆のなかに浸透していった。
[戦後の浪曲界]
第2次大戦後は,軍事物や義士物など封建的演題への反動によって不振をきわめていたが,しだいに復活して,浅草国際劇場や明治座などの大劇場において浪曲大会を開催したこともあり,民間放送発足以来,大衆芸能の主要な種目としての座を獲得し,浪曲台本の専門作家も多く見られるようになり,一方,〈浪曲天狗道場〉のようなラジオ聴取者参加番組も製作された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」