松院跡(読み)まついんあと

日本歴史地名大系 「松院跡」の解説

松院跡
まついんあと

淳和じゆんな院内にあった別亭。その位置を後述の「三代実録」は淳和院西南とし、「山城名勝志」は「按後世此旧跡寺歟、西院松井寺ト云アリ」と記す。現在四条通南、佐井さい通西の地に西院松井さいいんまつい町という町名が残り、その辺りと考えられる。

「三代実録」貞観一六年(八七四)四月一九日条に「淳和院失(中略)是夜淳和太皇太后御素車宮、避火於松院在院西南」とあり、太皇太后正子(淳和天皇皇后)が火を避けて松院に移っている。その後「日本紀略」延喜八年(九〇八)一〇月四日条に「光孝天皇第一源氏綾子卒、号松院君」とあり、天暦元年(九四七)三月二〇日条には「太上皇幸西河、修御祓、便幸松院」という記事がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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