柿田代煙硝屋跡(読み)かきたしろえんしようやあと

日本歴史地名大系 「柿田代煙硝屋跡」の解説

柿田代煙硝屋跡
かきたしろえんしようやあと

[現在地名]武雄市武内町真手野字柿田代

松浦川上流の北岸に位置する。幕末、武雄領が火薬をつくった所で、現在、水田下に埋められている排水溝のみが残っている。

天保五年(一八三四)武雄領では全国に先駆けて洋式大砲を鋳造し、火薬の製造も行った。この時、松浦川から取水して水車を回し、石臼硝石粉砕して火薬をつくった。

昭和四九年(一九七四)圃場整備が行われ水田の地下一・六メートルの地点に九〇センチ四方の切石で囲った暗渠が発見され、一五〇メートルにわたり、松浦川に排水されていたことがわかった。水車を回したあとの排水をこのように堅牢な暗渠から流したことについては捨水を再利用したと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

《料理されるためにまないたにのせられた魚の意から》相手のなすに任せるより方法のない運命のたとえ。まないたの鯉こい。[類語]俎板まないたの鯉こい・薬缶やかんで茹ゆでた蛸たこのよう・手も足も出ない...

俎上の魚の用語解説を読む