栗太郡
くりたぐん
面積:五二・七五平方キロ
栗東町
現在の栗太郡は栗東町一町だが、近世までの当郡は県南東部に位置し、草津市と大津市・守山市の一部を含む地域からなる。以下の記述は近世までの当郡域を対象とする。南は瀬田川を挟んで滋賀郡、南東は山城国綴喜郡、東は甲賀郡、北は旧野洲川の流路を挟んで野洲郡と接する。南東部には信楽山地から続く金勝山地・田上山地があり、さらにその西に洪積層からなる瀬田丘陵、そして琵琶湖に続く沖積低地の平野部が続く。山地や丘陵部から葉山川や草津川・狼川などが天井川を呈して西流する。草津川以南は溜池が多く点在。交通は古来勢多橋で滋賀郡と結ばれてきたが、現在も琵琶湖の東岸を通る交通路はすべて瀬田川を越える。
「和名抄」郷里部では二番目に配され、同書東急本に「国府在栗太郡、行程上一日下半日」とあるように近江国府が設置された郡である。高山寺本・東急本ともに物部・治田・木川・勢多・梨原の五郷をあげ、養老令の基準では下郡。訓は東急本に「久留毛止」とあり、「栗本」と表記する場合もあるのでクルモトであろう。「更級日記」に「犬上、神崎、野洲、くるもとなど」を通ったと記すのもこれを証明するが、のちクリタと読んだのは栗太の表記に引かれたものか。郡名表記は高山寺本・東急本は栗太、刊本は栗本とする。栗本の表記は「三代実録」貞観一七年(八七五)一二月二七日条の「栗本郡人前伊豆権目正六位上小槻山公良真」、「堤中納言物語」の「野洲・栗本の近江餅」などの例があり、また栗下女王(「日本書紀」舒明天皇即位前紀)などともあるが、ともに用例は少なく文書などでは栗太の表記しかみえず、これが公式の表記と考えてよいだろう。
〔原始・古代〕
郡域での人類の営みは縄文時代中期から知られ、霊仙寺遺跡(栗東町)などがある。比較的低地が広がるため弥生時代の遺跡は多く、湖岸低地の志那中遺跡・烏丸崎遺跡(草津市)、草津川・金勝川・葉山川などの流域の中沢遺跡・小柿遺跡(栗東町)などが知られる。古墳は前期・中期のものもあるが、数量的には後期のものが圧倒的に多い。とくに群集墳の存在形態は興味深く、当郡最大の有力氏族小槻(小槻山)氏とかかわるとみられる小槻大社古墳群(栗東町)・北谷古墳群(草津市)、治田氏ないしは笠氏とかかわるらしい南笠古墳群(草津市)などが注目される。白鳳時代とされる寺院跡も一三―一五ヵ所確認され(草津市史)、畿内は一郡数ヵ寺、畿外では一国に一―二ヵ寺という通説を覆すほどの多さである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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