根来流(読み)ねごろりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「根来流」の意味・わかりやすい解説

根来流
ねごろりゅう

紀州根来寺の僧兵集団のうちに培われた武術で、とくに鉄砲の術に優れ、旗頭(はたがしら)の一人、杉坊明算(すぎのぼうめいさん)は津田監物算長(けんもつかずなが)(津田流祖)の弟で、鉄砲の名手であった。1584年(天正12)の小牧の陣に、根来衆徒は豊臣(とよとみ)秀吉の召命に抗したため、翌85年大軍に攻められて全山焼打ちにあい、壊滅的な打撃を受け、諸国に逃散した。一部は伊勢(いせ)を経て遠州浜松の徳川家康を頼り、のちに江戸幕府や紀州藩の鉄砲組となり、一部は毛利(もうり)氏はじめ諸大名に仕えた。剣術では、一刀流忠也(ちゅうや)派の祖・伊藤典膳(いとうてんぜん)忠也の養嗣となった亀井平右衛門忠雄(かめいへいえもんただお)(1601―91)も根来の出身で、その弟小右衛門重明(こえもんしげあき)は、のち根来独身斎(どくしんさい)を称して天心独名(てんしんどくめい)流をおこし、奥州の二本松藩(福島県)に仕えた。重明のあと長男の八九郎重次(しげつぐ)が本家を継ぎ、また女婿の伝右衛門正勝(でんえもんまさかつ)は分家を創設して根来流を称した。同流6代正成(まさなり)のとき、藩主諫書(かんしょ)を呈して、2子とともに投獄され、断食して獄中に死んだ。1826年(文政9)行年53歳であった。

[渡邉一郎]

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