楯北村(読み)たてきたむら

日本歴史地名大系 「楯北村」の解説

楯北村
たてきたむら

[現在地名]寒河江市丸内まるのうち一―三丁目・七日町なのかまち西根北町にしねきたまち南町みなみまち二―三丁目・石持町いしもちちよう本町ほんちよう三丁目・山岸町やまぎしちよう中央ちゆうおう一丁目

寒河江村が元和八年(一六二二)―同九年頃に分立してできた村で、寛文五年(一六六五)稲荷明神(惣持寺)宛の朱印状(寛文朱印留)に村名がみえる。のち同じく分立した楯東村を併合した。中世には村の一部が寒河江庄八鍬やくわ郷に含まれており、当地の石持に比定される石間打の地名慈恩じおん寺関係の文書に散見する。嘉吉二年(一四四二)一一月二七日「八鍬住人ミとヘ 平三家吉」が、「八鍬の郷内石間打三まいてん」五〇〇束刈を一七貫文で慈恩宝林ほうりん坊に売却しているが、この三昧田には、年に油三箇と慈恩寺座行事へ二八〇文を納める負担がついていた(「平三家吉売券」宝林坊文書)。また同年月日に、慈恩寺中院住の阿闍梨善能が年四〇〇文の役負担のある石間打四〇〇束刈を一四貫文で宝林坊に売却した(「阿闍梨善能売券」同文書)。文明一六年(一四八四)一一月一五日には、年に油三箇と座行事へ二八〇文の役を負う石間打三昧田五〇〇束刈が、寒河江大沼右馬助菊丸によって七貫文で売却されている(「大沼右馬助菊丸売券写」禅林坊文書)

享保八年(一七二三)の寒河江本郷六ヵ村絵図(佐藤家蔵)によると、本郷六ヵ村(楯北・楯西・楯南・本楯・石川・君田町)のうち楯北・楯西・楯南の三村は旧寒河江城本丸を中心に、それぞれ北・西・南に分布する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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