日本歴史地名大系 「寒河江市」の解説 寒河江市さがえし 面積:一四〇・〇〇平方キロ県の中央部、山形盆地の西部に位置し、南は東村山郡中山(なかやま)町、東は南から天童市・西村山郡河北(かほく)町・村山市、北は最上郡大蔵(おおくら)村、西は西村山郡西川(にしかわ)町・大江(おおえ)町。北端の葉(は)山が標高一四六一・七メートルで、この葉山山塊が北から南へ傾斜し、慈恩寺(じおんじ)・白岩(しらいわ)辺りで、ほぼ一五〇メートルの等高線が山地と平野部の境をなしている。市域平野部の北部を東流する寒河江川と、同平野部南端を東流し、市の南東端で北流に転ずる最上川が市域平野部の北東端で合流する。平野部の大部分は寒河江川の開析扇状地が占め、東部は最上川が自然堤防と後背湿地を形成している。市中央部の長岡(ながおか)山(一六〇・二メートル)は洪積世の残丘で寒河江川の堆積した古扇状地の名残と考えられ、両側に寒河江川による段丘地形が発達している。市内をJR左沢(あてらざわ)線が通り、山形―鶴岡を結ぶ国道一一二号と、米沢―東根を結ぶ同二八七号が高松(たかまつ)で交差する。主要地方道寒河江―村山線が市中央部を南北に、天童―大江線が東西に走る。葉山山塊を熊野(ゆうの)川に沿って北上し、新庄と結ぶ新庄―大江線が整備されつつある。東北横断自動車道酒田線が市域南部を東西に横断する予定。〔原始・古代〕旧石器時代後期の遺跡として、彫刻刀様石器・剥片尖頭器などを出土する中郷(なかごう)の明神山(みようじんやま)遺跡、ナイフ・石刃・石刃核などが出土した柴橋金谷原(しばはしかなやつぱら)遺跡が最上川沿いに分布する。縄文時代の遺跡は、前期のものとして長岡山の山岸(やまぎし)遺跡・慈恩寺太郎山(じおんじたろうやま)遺跡、中期遺跡として向原(むかいばら)・上谷沢(かみやさわ)・柴橋・日和田(ひわだ)の各遺跡、前期と中期の複合遺跡である高瀬山(たかせやま)K遺跡、それに晩期の大集落である石田(いしだ)遺跡がある。いずれも集落跡で、石田遺跡からは多数の土偶が、柴橋遺跡からは複式炉を伴う住居跡群が発見され、当時の集落の様相を知るうえで貴重である。弥生時代の遺跡としては三条(さんじよう)・石田の両遺跡があり、ともに平地の集落跡であるが、石田遺跡からは埋甕群や紡錘車が発見されている。この両遺跡は土師器の出土を伴う古墳時代との複合遺跡でもある。最上川沿いの高瀬山古墳は、寒河江市域で現存する唯一の古墳であり、箱式石棺を内部主体とする小円墳で、直刀などが出土している。山頂の東向き斜面には一二世紀の経塚もあった。慈恩寺から北東に連なる山麓、箕輪(みのわ)からは蕨手刀が発見されており、古墳の存在が推定される。また高瀬山では村山地方で唯一の方形周溝墓の一部が確認されている。律令制下では村山郡に属した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寒河江市」の意味・わかりやすい解説 寒河江〔市〕さがえ 山形県中部,山形盆地の西端から葉山 (1462m) 南麓に広がる市。天童市の西にあり,北東部は村山市に接する。 1954年寒河江町,西根村,柴橋村,高松村,醍醐村が合併し,市制施行。同年白岩町,三泉村を編入。古代,関東地方より入植してきた寒川農民が定住した当地は入江が多かったため,初めは「寒川の江」と呼ばれ,次第に「さがえ」と呼ばれるようになったといわれている。中心集落の寒河江は寒河江川が最上川に流入する地点にあり,鎌倉時代から天正 12 (1584) 年まで大江氏の城下町で,江戸時代は代官所がおかれた。現在は両河川中流域の農山村地帯を後背地とする商業,行政,教育の中心地である。食品加工業や繊維産業が立地。県史跡の慈恩寺は林家舞楽 (重要無形民俗文化財) で知られ,本堂,阿弥陀如来坐像は重要文化財。 1952年に掘削された寒河江温泉がある。 JR左沢 (あてらざわ) 線,国道 112号線,山形自動車道が通り,インターチェンジが設置されている。面積 139.03km2。人口 4万189(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by