三
村
みんまやむら
[現在地名]三厩村
東町・
本町・
桃ヶ丘・
算用師・
中浜・
緑ヶ丘・
家の上・
塩見台 北は津軽海峡の三厩湾に面し、東は増川村、西は浜名村(現今別町)の支村宇鉄、南は矢形石山で小泊村(現北津軽郡小泊村)に接する。天正一三年(一五八五)八月一〇日、上方へ上る計画で鰺ヶ沢(現西津軽郡鰺ヶ沢町)を出帆した大浦為信は、大暴風雨のため松前まで流され、三厩経由で帰城したという(津軽一統志、津軽歴代記類)。
正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図に村名はないが、航路が記され、「みまやの間ふかさ三尋北風わろし其外船かかり吉」とある。
三
村
みかずらむら
[現在地名]匹見町紙祖
紙祖川上流域に位置する山間の村。石見国と安芸国・周防国の国境に近く、北方は西村。西方に安蔵寺山がある。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に「みかつら村」とみえ、高一二五石余、年貢高は田方二八石余・畑方一五石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高一一九石余、免三ツ七分。蕎麦・楮などを多く栽培した。木地を挽き、紙漉も行われた。明治八年(一八七五)西村・七村と合併して紙祖村となる。当地中央、紙祖川右岸山麓に浄土真宗本願寺派の妙玄寺がある。
三
村
みかずらむら
[現在地名]和歌山市三葛
名草郡に属し、名草山北西麓にある。東は峰を挟んで吉原村。中世は和田庄に含まれ、元応二年(一三二〇)五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)に「三葛郷」とみえる。文明七年(一四七五)の文書によれば塩年貢を納めている(→和田庄)。「蓮如上人紀伊国紀行」によると、文明一八年三月一〇日、蓮如は田尻浜を過ぎ当地を通って紀三井寺に至っている。その折に、「御カツラ峠ヘノホリテ、フモトヲ一見シテ、心ニウカフマヽ」として「カケテ見ム御カツラ山ノ峠カナ」と記している。永禄五年(一五六二)七月吉日付湯河直春起請文(湯河家文書)は雑賀一揆の「南郷」のうちに「三葛 田所殿」を記す。
三村
みむら
[現在地名]石岡市三村
恋瀬川右岸に位置し、北東は高浜村。恋瀬川沿岸の低地とその南の台地に集落が散在する。室町時代に上ノ宮を中心とする上郷、下ノ宮を中心とする下郷、中郷谷二子塚・江後田などの中郷が合して三村の村名が現れたといわれる(石岡市史)。室町時代には上郷に三村要害、下郷に三村城があり、「南城高家録」に「常春公老臣共へ被仰けるは三村より西の方三ケ所の砦を構へ可然先づ一番に若狭太郎元春をして守らしむ。
三村
みむら
[現在地名]岩井市三
上出嶋村の西に所在。中央を境街道が東西に貫通。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)に「ミむら 千光院領」とあり、現古河市にあった松月院の前身千光院の支配地であった。真宗の盛んな土地で、「倉持刑部文禄の覚」によると、村内の妙安寺や浄国寺門徒は天正六年の石山合戦に召集されている(北下総地方史)。
近世には下総関宿藩領で、宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)によると、村域は東西七三八間・南北八四二間。寛文元年(一六六一)関宿藩主板倉重常が実施した検地を基礎とし、本高四二七・五一四石、新高三六・六八二石。
三村
みむら
[現在地名]上三川町三村
田川左岸に位置し、低地と台地からなる。東は坂之上村。近世初めは烏山藩領。元和六年(一六二〇)の検地帳(猪瀬盛三郎文書)に村名がみえ、村高一四五石余、田一〇町二反余・畠五町四反余、居屋敷は一五筆で二反余、名請人は三二、うち居屋敷持一五。同八年幕府領となる。寛永一〇年(一六三三)旗本坂部領となる。
三
村
みんまやむら
面積:六五・七三平方キロ
東津軽郡の西北端に位置し、南東は今別村、北は津軽海峡を隔てて北海道に対し、西は津軽半島の脊梁山脈の中山山地で北津軽郡小泊村と接する。この山地の最高峰増川岳(七一三・七メートル)を水源として東北の津軽海峡に流れ出る増川川の下流に、わずかに平地をみるほかは山岳地帯で、海岸沿いの国道二八〇号沿いに小集落が連なり、背後は山地で最北端は竜飛崎となって突きでている。
中心の三厩は津軽海峡の三厩湾に臨み、松前へ渡る舟運の要地で、現在も北海道松前郡福島町との間にフェリーが運航されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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