寒河江村(読み)さがえむら

日本歴史地名大系 「寒河江村」の解説

寒河江村
さがえむら

現寒河江市の中心部を占めていた村で、正保郷帳寒川江村とみえ、高一万二千二六四石余、うち田方八千三二九石余・畑方五四一石余(幕府領)・寺社領三千三九三石余。村はそれ以前の元和八年(一六二二)―同九年頃には楯北たてきた・楯南・楯東・楯西の四村に分立していたと思われ、寛文五年(一六六五)稲荷明神(惣持寺)宛の朱印状(寛文朱印留)に四村名がみえる。天保郷帳では楯北(楯東を含む)・楯西・楯南の三村が高付されており、楯北村に「古者寒河江村」、他の二村に「古者寒河江村之内」の注記がある。明治七年(一八七四)楯北村の一部(石川組)西根にしね村の一部となり、同一四年楯北・楯西・楯南の三村と本楯もとだて村が合併して寒河江村となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報