日本歴史地名大系 「横嶺村」の解説 横嶺村よこみねむら 大分県:豊後高田市横嶺村[現在地名]豊後高田市嶺崎(みねざき) 横嶺小田原(こだわら)村の南東に位置し、西叡(さいえい)山東麓、桂(かつら)川支流の小崎(おさき)川下流域に立地する。六郷山本山末寺の岩脇(いわわき)寺がある。中世には田染(たしぶ)庄に含まれた。永禄六年(一五六三)三月五日の田染建栄書状案(永弘文書)に間戸(まど)・岩脇とみえ、綾部美濃守が真玉和泉守を襲撃、建栄は事件落着後、間戸・岩脇へ度々成敗事があったが、政所としてはかかわれない事情が多々あるので、大友家社奉行奈多氏に指示を求めている。 横嶺村よこみねむら 千葉県:富津市横嶺村[現在地名]富津市更和(さらわ)木(き)村の北東に位置し、湊(みなと)川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇〇石。正保国絵図では横嶺として高三二九石。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。元禄郷帳では高三四二石余で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から再び佐貫藩領で、幕末に至る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by