寺子屋(読み)テラコヤ

デジタル大辞泉 「寺子屋」の意味・読み・例文・類語

てらこ‐や【寺子屋/寺小屋】

江戸時代庶民の教育施設。僧侶・武士・神官・医者などが師となり、読み・書き・そろばんを教えた。教科書は「庭訓ていきん往来」「童子教」など。明治以後、義務教育の普及によって消滅。寺。寺屋。
(寺子屋)浄瑠璃菅原伝授手習鑑」の四段目のきりの通称。松王丸が一子小太郎菅秀才身代わりに立て苦衷を示すもの。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「寺子屋」の意味・読み・例文・類語

てらこ‐や【寺子屋・寺小屋】

  1. [ 1 ] 江戸時代に普及した庶民の教育機関。最も古いものは室町時代にみることができるが、広く普及したのは江戸中期以後。手習師匠の私宅に開設され、読み書きそろばんを教えた。寺屋。寺子。寺。
    1. [初出の実例]「寺小屋の二階と下にいひ名付」(出典:雑俳・心の種(1742頃))
  2. [ 2 ] ( 寺子屋 ) 浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」四段目切の通称。武部源蔵夫婦の寺子屋で、敵方と見えた松王が一子小太郎を菅秀才の身替わりに立て苦衷を示す筋。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「寺子屋」の意味・わかりやすい解説

寺子(小)屋 (てらこや)

近世における未成年者に対する民衆教育の機関。そこで行われた教育は,武士とそれを除く農,工,商とを身分的に差別するためのものであった。教育の内容は日常生活に必要な読み,書き,実用的な知識と才能とを必要とするそろばんなどを学ばせた(読み書きそろばん手習い)。いずれも日常生活や社会生活を営むために,手近な必要知識や技能と道徳に関する内容を文字を覚えることで授けようとした。学習する内容からいえば,明らかに現実の生活に従属しており,これに埋没することによって,横の関係における人間形成の教育は行われていなかった。師匠と寺子とは個別的学習指導に基づく師弟関係を基礎とする人格的接触によって,縦の関係における封建的な人間形成が行われていたといえよう。したがって,その存在自体は近世の身分制社会の所産といってよい。寺子屋の出現が顕著になるのは近世の後期で,とくに寛政期(1789-1801)以降になると,江戸,大坂,京都などの都市はもとより,農漁村でも急激に増加してくる。明治期になって〈学制〉頒布(1872)前後から急に減少する。

 寺子屋の特徴は,個人的な未成年者用の教場であり,教師と経営者とは同一の人物で,しかも一代限りのものが多かった。この点では教師と経営者とが人格的にも未分離であったといってよい。寺子屋の教師になったのは僧侶のほかに書家,神官,医者,浪人などである。なかには女の師匠も出現した。これに対して,授業を受けたのは農,工,商などの子弟であり,寺子のほかに手習子,筆子などといった。寺子屋で教育を受けた記念に筆子によって筆子塚が作られ,現存しているものもある。教科書としては往来物が主であり,そのほかに《三字経》《実語教》《童子教》《六諭衍義(りくゆえんぎ)大意》《孝経》《女今川》なども用いられた。近世では幕府や各藩とも寺子屋の設立や維持には原則的には消極的な態度で臨んでおり,例外的に奨励されることがあっても,民間の寺子屋を特別に保護して,これを公認するということはなかった。
執筆者:


寺子屋 (てらこや)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺子屋」の意味・わかりやすい解説

寺子屋(教育機関)
てらこや

近世から近代初頭にわたり広く普及した庶民教育機関。中世寺院の世俗教育に源流はみられるが、本質的には江戸中期以降の商品・貨幣経済の発展を基盤として、勢力を伸長した庶民の教育需要に即応し、自主的に成立し普及した教育施設である。したがって一教室・一教師組織の素朴な規模(学童20~30人くらい)のものが多く、学童は6、7歳から12、3歳の男女で、寺子、筆子(ふでこ)などとよばれ、往来物(書簡体の教科書)などを手本とし、手習うという反復的訓練を通して、生業や生活に必要な知識・技能・道徳を学習した。師匠は、僧侶(そうりょ)、武士、神官、町人などが知られるが、地方では、村吏、農民師匠も多かった。また、都市や商業的農業の進展した農村地域では算盤(そろばん)を、大都市では茶道・華道・漢学・国学などの教養科目を加えるものもあるなど、地域社会の構造・機能・様態などに応じた学習も行われた。このように庶民生活に密着した寺子屋は、庶民生活の向上と教育需要の増大、幕藩体制の動揺に対応する幕藩領主の保護奨励とによって、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)・安永(あんえい)(1751~81)のころから増加の動きをみせ、天保(てんぽう)(1830~44)以後においては、安永期(1772~81)に比べて47~100倍という増加をし、『日本教育史資料』によれば、その数約1万5000校に達した。寺子の幕末期における就学率は、埼玉・群馬両県下の養蚕地帯でおよそ40%から50%、愛知県の商品的農産地帯などで平均47.9%という高率の所もみられた。このように普及をみた寺子屋は、明治以後、小学校教育に圧倒され消滅したが、近代における義務教育普及徹底の大きな基盤となった。

[利根啓三郎]

『石川謙著『寺子屋』(1966・至文堂)』『石川謙著『日本庶民教育史』(1972・玉川大学出版部)』『利根啓三郎著『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(1981・雄山閣出版)』



寺子屋(菅原伝授手習鑑)
てらこや

菅原伝授手習鑑

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「寺子屋」の意味・わかりやすい解説

寺子(小)屋【てらこや】

江戸時代の初等教育機関。武家子弟向きのものもあったが,おもに庶民子弟を収容。中世の寺院教育が起源となっている。たいてい教師と経営者は同一人物で,僧侶のほか,書家,神官,医者,浪人などがなった。明治初年までの開設数約1万5000。主に往来物を教科書とし,手習いを通して読み書きを教えるものが多く,のちには算術(そろばん)も加えられた。→スリーアールズ
→関連項目私塾習字小学校商売往来庭訓往来天神

寺子屋【てらこや】

菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺子屋」の意味・わかりやすい解説

寺子屋
てらこや

浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の4段目の切 (きり) 。延享3 (1746) 年竹本座初演。三好松洛,並木千柳,1世竹田出雲が三人三様の趣向で親子の別れを競作したうちの一つで,この部分は出雲作といわれる。松王の妻千代が一子小太郎を連れてくる「寺入り」,かくまっている菅丞相 (道真) の嫡子・菅秀才の首を討てと時平方から命ぜられて武部源蔵が戻ってくる「源蔵戻り」,首実検役の松王は首を見ながら相違なしと認めて去るが,その首は身替りの小太郎のものであった「首実検」,松王が源蔵に心底を明かす「松王の泣き笑い」,松王夫婦がわが子の野辺の送りをする「いろは送り」,など見どころ聴きどころが多い。松王夫婦の扮装が変るのも美しい演出で,歌舞伎でもしばしば上演される。

寺子屋
てらこや

江戸時代,庶民の子供に読,書,算の初歩を授けた私設の教育機関。日本では中世に入ると寺院が庶民の世俗教育も担当するようになった。その場合子供たちは6,7歳ぐらいから寺院に住込んで学習生活をおくった。この学習のために寺院に住込む子供たちを寺子といった。近世に入るとこの寺子の教育は寺院を離れて巷間で行われるようになったが,寺子の言葉はそのまま残され,子供を教える施設を寺子屋と呼ぶようになった。手習い (習字) を主とし,「手習師匠」とも呼ばれた。幕末維新期には都市はもとより全国の農山村にまで広く普及し,明治初期の小学校の母体となった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺子屋」の解説

寺子屋
てらこや

寺小屋・手習所(てならいどころ)・筆道稽古所とも。近世から近代初頭の民衆教育機関。内容は主として習字で,ほかに読書・算術を教えるところもあった。まず「いろは」から始め,その後男女の別や子供の出身にあわせ往来文(物)に進んだ。入学年齢・時期・在学期間などは近代以降の学校と異なり自由で,地域の民衆の生活実態に適合した制度だったが,そのことが教育内容の合理化や高度化を阻んでいた面もある。教師はふつう手習師匠とか,たんに師匠といわれ,地域紛争や家庭問題の仲裁役・相談役としても尊敬された。寺子屋は民衆の現実的必要性や勉学への意欲を背景にして近世後期以降盛んになり,幕末・維新期には全国津々浦々に普及した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「寺子屋」の解説

寺子屋
てらこや

江戸時代,読み・書き・そろばんを教えた庶民の教育機関
中世の僧侶による庶民教育からおこり,江戸時代,町人階級の台頭,農村への商品経済の浸透などで普及した。牢人・神官・僧侶・医師などが教師役で,寺子(児童)は6〜13歳ごろまで通常20〜30人。教科書には『庭訓往来』『実語教』『童子教』などが使用された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

防府市歴史用語集 「寺子屋」の解説

寺子屋

 江戸時代、庶民のためにつくられた学校です。読み・書き・そろばんを中心に教えられていました。武士や僧侶・医者などが教えていたようです。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「寺子屋」の解説

寺子屋
てらこや

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
嘉永3.1(岐阜)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の寺子屋の言及

【菅原伝授手習鑑】より

…1746年正月竹本座では《楠昔噺》を上演し,大当りをとった。その祝の席で三好松洛が《菅原》の上演を提案,二段目を松洛,三段目を出雲,四段目を千柳が執筆することに決め,丞相と苅屋姫の生別れ(二段〈道明寺〉),白太夫と桜丸の死別れ(三段〈賀の祝〉),松王と小太郎の首別れ(四段〈寺子屋〉)の父子別離三題が成り立ったという伝説がある。なかでも〈寺子屋〉が評判よく,〈四段目の大当りは大坂中は勿論,諸国の浦々山家の隅々も響き渡る大評判。…

【往来物】より

…ついで南北朝・室町時代初期に作られた《庭訓(ていきん)往来》は,《十二月往来》の形式によりながら(8月が3通になっているために全25通から成る),室町初期の武家社会の諸行事に託して,書簡文作製のための基礎知識と,武家の生活に必要な諸知識を網羅的に収めることに成功している。そのため,これは古往来の代表として江戸時代を通じて寺子屋などで広く使用され,単独のものだけでも170回以上板行された。同じく室町初期には,1193年(建久4)に行われた富士野の巻狩りに材をとって,普通の書簡文以外のさまざまな文書の書式も収めた《富士野往来》があらわれた。…

【学校】より

…しかし義務教育の普及とともに組織だった教員養成がすすみ,数十人の学級編成がとられるようになったが,一斉指導の方式は引き継がれた。日本でも,個別に手習いを指導していた寺子屋から近代学校への転換のさい,一斉指導に切り替えられた。
[複線型学校と統一学校運動]
 ヨーロッパでは義務教育制度が成立した19世紀後半にいたっても,なお独自の初等教育段階の学校をともなう伝統的な中等学校が存続した。…

【菅原伝授手習鑑】より

…1746年正月竹本座では《楠昔噺》を上演し,大当りをとった。その祝の席で三好松洛が《菅原》の上演を提案,二段目を松洛,三段目を出雲,四段目を千柳が執筆することに決め,丞相と苅屋姫の生別れ(二段〈道明寺〉),白太夫と桜丸の死別れ(三段〈賀の祝〉),松王と小太郎の首別れ(四段〈寺子屋〉)の父子別離三題が成り立ったという伝説がある。なかでも〈寺子屋〉が評判よく,〈四段目の大当りは大坂中は勿論,諸国の浦々山家の隅々も響き渡る大評判。…

【手習い】より

…江戸時代の寺子屋および手習所で行われていた教育。中世の公家教育における仮名の手習い,和歌の手習い,漢字の手習いといった書道による基礎教育は,近世の町人の子弟を教育する寺子屋において,手習いとして中心的な教育内容となった。…

【読み書きそろばん(読み書き算盤)】より

…日本でもほぼ同時期に絵入りの《庭訓往来図讃》(1688)が刊行されていた。近世の民衆学校(日本では寺子屋)では読み書きの学習が中心で,地理や歴史の知識も必要なかぎりこの学習によって習得した。日本の場合めだつのは,書くこと(手習い)が重視され,勉強即手習いといえるほどであったことである。…

※「寺子屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」