近世における未成年者に対する民衆教育の機関。そこで行われた教育は,武士とそれを除く農,工,商とを身分的に差別するためのものであった。教育の内容は日常生活に必要な読み,書き,実用的な知識と才能とを必要とするそろばんなどを学ばせた(読み書きそろばん,手習い)。いずれも日常生活や社会生活を営むために,手近な必要知識や技能と道徳に関する内容を文字を覚えることで授けようとした。学習する内容からいえば,明らかに現実の生活に従属しており,これに埋没することによって,横の関係における人間形成の教育は行われていなかった。師匠と寺子とは個別的学習指導に基づく師弟関係を基礎とする人格的接触によって,縦の関係における封建的な人間形成が行われていたといえよう。したがって,その存在自体は近世の身分制社会の所産といってよい。寺子屋の出現が顕著になるのは近世の後期で,とくに寛政期(1789-1801)以降になると,江戸,大坂,京都などの都市はもとより,農漁村でも急激に増加してくる。明治期になって〈学制〉頒布(1872)前後から急に減少する。
寺子屋の特徴は,個人的な未成年者用の教場であり,教師と経営者とは同一の人物で,しかも一代限りのものが多かった。この点では教師と経営者とが人格的にも未分離であったといってよい。寺子屋の教師になったのは僧侶のほかに書家,神官,医者,浪人などである。なかには女の師匠も出現した。これに対して,授業を受けたのは農,工,商などの子弟であり,寺子のほかに手習子,筆子などといった。寺子屋で教育を受けた記念に筆子によって筆子塚が作られ,現存しているものもある。教科書としては往来物が主であり,そのほかに《三字経》《実語教》《童子教》《六諭衍義(りくゆえんぎ)大意》《孝経》《女今川》なども用いられた。近世では幕府や各藩とも寺子屋の設立や維持には原則的には消極的な態度で臨んでおり,例外的に奨励されることがあっても,民間の寺子屋を特別に保護して,これを公認するということはなかった。
執筆者:津田 秀夫
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近世から近代初頭にわたり広く普及した庶民教育機関。中世寺院の世俗教育に源流はみられるが、本質的には江戸中期以降の商品・貨幣経済の発展を基盤として、勢力を伸長した庶民の教育需要に即応し、自主的に成立し普及した教育施設である。したがって一教室・一教師組織の素朴な規模(学童20~30人くらい)のものが多く、学童は6、7歳から12、3歳の男女で、寺子、筆子(ふでこ)などとよばれ、往来物(書簡体の教科書)などを手本とし、手習うという反復的訓練を通して、生業や生活に必要な知識・技能・道徳を学習した。師匠は、僧侶(そうりょ)、武士、神官、町人などが知られるが、地方では、村吏、農民師匠も多かった。また、都市や商業的農業の進展した農村地域では算盤(そろばん)を、大都市では茶道・華道・漢学・国学などの教養科目を加えるものもあるなど、地域社会の構造・機能・様態などに応じた学習も行われた。このように庶民生活に密着した寺子屋は、庶民生活の向上と教育需要の増大、幕藩体制の動揺に対応する幕藩領主の保護奨励とによって、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)・安永(あんえい)(1751~81)のころから増加の動きをみせ、天保(てんぽう)(1830~44)以後においては、安永期(1772~81)に比べて47~100倍という増加をし、『日本教育史資料』によれば、その数約1万5000校に達した。寺子の幕末期における就学率は、埼玉・群馬両県下の養蚕地帯でおよそ40%から50%、愛知県の商品的農産地帯などで平均47.9%という高率の所もみられた。このように普及をみた寺子屋は、明治以後、小学校教育に圧倒され消滅したが、近代における義務教育普及徹底の大きな基盤となった。
[利根啓三郎]
『石川謙著『寺子屋』(1966・至文堂)』▽『石川謙著『日本庶民教育史』(1972・玉川大学出版部)』▽『利根啓三郎著『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(1981・雄山閣出版)』
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寺小屋・手習所(てならいどころ)・筆道稽古所とも。近世から近代初頭の民衆教育機関。内容は主として習字で,ほかに読書・算術を教えるところもあった。まず「いろは」から始め,その後男女の別や子供の出身にあわせ往来文(物)に進んだ。入学年齢・時期・在学期間などは近代以降の学校と異なり自由で,地域の民衆の生活実態に適合した制度だったが,そのことが教育内容の合理化や高度化を阻んでいた面もある。教師はふつう手習師匠とか,たんに師匠といわれ,地域紛争や家庭問題の仲裁役・相談役としても尊敬された。寺子屋は民衆の現実的必要性や勉学への意欲を背景にして近世後期以降盛んになり,幕末・維新期には全国津々浦々に普及した。
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…1746年正月竹本座では《楠昔噺》を上演し,大当りをとった。その祝の席で三好松洛が《菅原》の上演を提案,二段目を松洛,三段目を出雲,四段目を千柳が執筆することに決め,丞相と苅屋姫の生別れ(二段〈道明寺〉),白太夫と桜丸の死別れ(三段〈賀の祝〉),松王と小太郎の首別れ(四段〈寺子屋〉)の父子別離三題が成り立ったという伝説がある。なかでも〈寺子屋〉が評判よく,〈四段目の大当りは大坂中は勿論,諸国の浦々山家の隅々も響き渡る大評判。…
…ついで南北朝・室町時代初期に作られた《庭訓(ていきん)往来》は,《十二月往来》の形式によりながら(8月が3通になっているために全25通から成る),室町初期の武家社会の諸行事に託して,書簡文作製のための基礎知識と,武家の生活に必要な諸知識を網羅的に収めることに成功している。そのため,これは古往来の代表として江戸時代を通じて寺子屋などで広く使用され,単独のものだけでも170回以上板行された。同じく室町初期には,1193年(建久4)に行われた富士野の巻狩りに材をとって,普通の書簡文以外のさまざまな文書の書式も収めた《富士野往来》があらわれた。…
…しかし義務教育の普及とともに組織だった教員養成がすすみ,数十人の学級編成がとられるようになったが,一斉指導の方式は引き継がれた。日本でも,個別に手習いを指導していた寺子屋から近代学校への転換のさい,一斉指導に切り替えられた。
[複線型学校と統一学校運動]
ヨーロッパでは義務教育制度が成立した19世紀後半にいたっても,なお独自の初等教育段階の学校をともなう伝統的な中等学校が存続した。…
…1746年正月竹本座では《楠昔噺》を上演し,大当りをとった。その祝の席で三好松洛が《菅原》の上演を提案,二段目を松洛,三段目を出雲,四段目を千柳が執筆することに決め,丞相と苅屋姫の生別れ(二段〈道明寺〉),白太夫と桜丸の死別れ(三段〈賀の祝〉),松王と小太郎の首別れ(四段〈寺子屋〉)の父子別離三題が成り立ったという伝説がある。なかでも〈寺子屋〉が評判よく,〈四段目の大当りは大坂中は勿論,諸国の浦々山家の隅々も響き渡る大評判。…
…江戸時代の寺子屋および手習所で行われていた教育。中世の公家教育における仮名の手習い,和歌の手習い,漢字の手習いといった書道による基礎教育は,近世の町人の子弟を教育する寺子屋において,手習いとして中心的な教育内容となった。…
…日本でもほぼ同時期に絵入りの《庭訓往来図讃》(1688)が刊行されていた。近世の民衆学校(日本では寺子屋)では読み書きの学習が中心で,地理や歴史の知識も必要なかぎりこの学習によって習得した。日本の場合めだつのは,書くこと(手習い)が重視され,勉強即手習いといえるほどであったことである。…
※「寺子屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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