日本歴史地名大系 「富津市」の解説 富津市ふつつし 面積:二〇五・〇七平方キロ房総半島のほぼ中央部の西海岸に位置し、東京湾に面している。北東は君津市、南は鴨川市と安房郡鋸南(きよなん)町と接する。北部は小糸(こいと)川河口の沖積平野で平坦な水田・畑作地帯が開け、遠浅の海岸は埋立てられ、君津市から続く臨海工業地帯を形成する。その南に富津洲が突出している。中南部には鹿野(かのう)山・高宕(たかご)山・鋸(のこぎり)山など三〇〇メートル余の山があり、これらを水源とする岩瀬(いわせ)川・湊(みなと)川・染(そめ)川・白狐(びやつこ)川などが形成した沖積平野や河岸段丘上に耕地がみられる。海岸線は浸食作用による景勝の岩石海岸が多く、南房総国定公園の一画をなす。海岸部を通る国道一六号、市域をほぼ南北に貫通する国道一二七号のほか、主要地方道に木更津―富津―湊線、君津―天羽(あまは)線、鴨川―保田(ほた)線、君津―館山線がある。ほぼ海岸線沿いにJR内房線が通り、昭和三五年(一九六〇)から金谷(かなや)港と神奈川県久里浜港を結ぶカーフェリーが就航している。〔原始―中世〕縄文時代の遺跡には上の台(うえのだい)遺跡・十宮(とみや)遺跡・古船(こせ)遺跡・天神台(てんじんだい)遺跡・野原台(のはらだい)遺跡などがあり、弥生時代の大明神原(だいみようじんはら)遺跡・天王台(てんのうだい)遺跡などからは住居跡が発見された。古墳時代の遺跡は多く、五世紀中頃の県内でも最大級の内裏塚(だいりづか)古墳を含む内裏塚古墳群は前方後円墳一一・円墳一二などからなり、小久保の弁天山(こくぼのべんてんやま)古墳を含め小糸川流域から湊川流域までを支配していた須恵国造一族の墳墓と推定される。また古墳時代後期の横穴墓は絹(きぬ)横穴群・大満(だいまん)横穴群など三〇〇基余にのぼる。律令制下では須恵国造の支配域は周淮(すえ)・天羽の二郡に分れ、市域は天羽郡全域と周淮郡(周准郡)の一部にまたがる。治承四年(一一八〇)安房に上陸した源頼朝は房総を北上、当市域には頼朝にまつわる伝承が多く、地名なども頼朝に関連して説明されるものがある。房総に寺領があった金沢称名寺の年貢は古戸(ふんと)(富津)から輸送されている。足利尊氏による安国寺は亀田(かめだ)に創建されたという。中世後期には真里谷武田氏の支配下にあったが、やがて安房の里見氏が佐貫(さぬき)城を拠点に当地方にも勢力を拡大した。里見氏は房総半島の南進を目指す小田原北条氏と永禄一〇年(一五六七)に三舟(みふね)山周辺(現君津市境)で大きな合戦を繰広げた。〔近世〕天正一八年(一五九〇)里見氏は上総国を没収され、佐貫城には内藤家長が二万石で入封、のち松平忠重・柳沢吉保が入り、宝永七年(一七一〇)以降は阿部氏が明治維新まで佐貫藩主であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富津市」の意味・わかりやすい解説 富津〔市〕ふっつ 千葉県南西部,東京湾に面する市。 1971年富津 (1897年町制) ,大佐和 (1955年町制) ,天羽 (1955年町制) の3町が合体して市制。第2次世界大戦前まで富津岬の一部は要塞地帯。中心市街地は上総湊。畑作地が広く,共同育苗から共同出荷まで集約的に経営される園芸農業が発達。カボチャ,シイタケ,トマト,プリンスメロンなどを産する。青堀,富津の海岸は埋立て地が造成され,京葉工業地域の南部拠点として,機械,食品の諸工場が進出した。富津岬には海水浴場や富津公園があり,東部のマザー牧場,鹿野山一帯とともに南房総国定公園に属する。また南東部の高宕山西麓一帯は高宕山県立自然公園に属し,高宕山のサル生息地や上総湊の南西,竹岡のヒカリモ発生地は天然記念物。国道 16号線,127号線,465号線が通り,湾岸部を JR内房線が走る。面積 205.50km2。人口 4万2465(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by