水野忠篤(読み)みずの・ただあつ

朝日日本歴史人物事典 「水野忠篤」の解説

水野忠篤

生年生没年不詳
江戸後期の将軍側衆。将軍徳川家斉側近として重用され,文政4(1821)年5月御側御用取次に。家斉の厚い信頼のもと,幕政に強い影響力をおよぼす。天保8(1837)年4月の家斉隠居後も権勢をふるう。同じく家斉の側近である若年寄林忠英,新番頭格美濃部茂育と共に「三佞人」と称され,幕政改革を志向する老中首座水野忠邦と対立する。しかし,同12年閏1月の家斉の死を契機とした水野粛正(天保の改革開始)の対象となり,同4月罷免。さらに翌13年6月信濃国諏訪藩(諏訪市)にお預けとなる。前将軍に重用された重臣がたどる悲劇的結末を象徴する人物。<参考文献>北島正元『水野忠邦』

(安藤優一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野忠篤」の解説

水野忠篤 みずの-ただあつ

?-? 江戸時代後期の武士
将軍徳川家斉(いえなり)の側御用取次をつとめた。家斉の死後,天保(てんぽう)の改革により,林忠英(ただふさ),美濃部茂育(もちなる)とともに天保12年(1841)免職となり,加増の地5000石を没収される。翌年信濃(しなの)(長野県)高島藩にあずけられた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の水野忠篤の言及

【中野碩翁】より

…江戸後期の旗本。11代将軍徳川家斉の寵臣。名は定之助清茂。清備(きよとも)の子。1803年(享和3)叙爵して播磨守と称する。中野家はもと紀伊徳川家の臣で,祖父清房のとき,吉宗の将軍家相続に従って幕臣となり,叔母初崎は大奥に出仕して老女を務め,のち10代将軍家治の世嗣家基の乳母となった。碩翁は1765年(明和2)遺跡を継いで小普請に入り(廩米(りんまい)300俵),83年(天明3)出仕し小納戸となった。…

※「水野忠篤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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