朝日日本歴史人物事典 「林忠英」の解説
林忠英
生年:明和2.4(1765)
江戸後期の若年寄。天明7(1787)年8月,将軍徳川家斉の小姓になる。以後家斉の側近として重用され,文化1(1804)年3月御側御用取次,文政8(1825)年4月勝手掛若年寄。それまでにも度々加増されていたが,このとき1万石となり,上総国貝淵(千葉県木更津市)に陣屋が設けられる。天保8(1837)年4月の家斉隠居後も権勢を振るい,幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが,同12年閏1月の家斉の死に伴う水野の粛正により,同4月罷免。水野による天保改革の実施を妨げた「三佞人」のひとりとして知られるが,文政・天保期の幕府財政に重要な役割を果たした人物でもあった。<参考文献>北島正元『水野忠邦』
(安藤優一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報