日本大百科全書(ニッポニカ) 「高島藩」の意味・わかりやすい解説
高島藩
たかしまはん
信濃(しなの)国(長野県)諏訪(すわ)郡と筑摩(ちくま)郡の一部を領有した藩。諏訪藩ともいう。諏訪上社の大祝(おおほうり)諏訪氏は戦国大名として成長したが、1542年(天文11)武田晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))に滅ぼされた。一族の大祝頼忠(よりただ)は、1582年(天正10)武田氏、織田氏の滅亡を機に旧領を回復して徳川家康に属し、90年家康の関東移封に伴い、武蔵(むさし)国に移った。かわって豊臣(とよとみ)秀吉の家来日根野高吉(ひねのたかよし)が諏訪の領主となり、高島城を築いた。その子吉明は1601年(慶長6)下野(しもつけ)国壬生(みぶ)に移された。かわって頼忠の子頼水(よりみず)が旧領諏訪に帰った。以後譜代(ふだい)大名として、忠恒(ただつね)、忠晴(ただはる)、忠虎(ただとら)、忠林(ただとき)、忠厚(ただあつ)、忠粛(ただかた)、忠恕(ただみち)、忠誠(ただまさ)、忠礼(ただあや)と10代続いて明治維新に至った。18世紀末忠厚のとき二之丸一件(御家騒動)が起こり、これに続いて寛政(かんせい)期(1789~1801)以降藩政の改革が行われた。幕末には寒天業や製糸マニュファクチュアも現れた。また忠誠は幕政に参画し老中を勤めた。初め諏訪郡2万7000石を領し、大坂の陣後、筑摩郡のうち5000石を加増されたが、1657年(明暦3)忠晴のとき、弟2家に2000石を分知し旗本とした。1871年(明治4)廃藩、高島県、筑摩県を経て、76年長野県に編入。
[浅川清栄]
『『諏訪史』全4巻(1966・諏訪教育会)』